(筆洗)「紙芝居担当係」。そう聞けば - 東京新聞(2016年1月10日)

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「紙芝居担当係」。そう聞けば、のどやかな仕事を想像するが、終戦後、連合国軍総司令部(GHQ)が民間検閲部に配置した一部門である。紙芝居の検閲が仕事だった。
演じ手が絵を見せながら語る紙芝居は日本独自のドラマ手法でその歴史は源氏物語の時代まで遡(さかのぼ)れるそうだが、戦争中は不幸な使われ方をした。子どもに「お国のために」の軍国主義を教える道具だった。GHQが紙芝居を検閲の対象に加えたのは戦争中の紙芝居の影響力の大きさを知ったためという。未検閲の作品は上演できず、日本中から一時期、街頭紙芝居が消えた。
東京に街頭紙芝居が復活したのは七十年前の一九四六(昭和二十一)年一月十日。「黄金バット」や「少年イーグル」のヒーロー物で再始動した。
説明員と呼ばれる紙芝居屋さんのおじさんは復員者ら。紙芝居を見せ、小麦粉を魚油で揚げた煎餅とイモアメなどを売った。娯楽のない時代で大人気となり、ピークの四九年には説明員は東京だけで三千人、全国では五万人。紙芝居を見る子どもは一日、五十万人(四七年)いたそうだ。
「紙芝居は焼け跡から復興までの数年間、どこからとなくやって来ては、ここより他の場所に幸せのあることを教えてくれた」。寺山修司が書いている。
悲しさやひもじさを紙芝居で一時忘れたかったか。七十年前の子どもに煎餅をおごってあげられたら。