軍都の記憶(7) 米軍演習場「チガサキ・ビーチ」:神奈川 - 東京新聞(2015年8月29日)

http://www.tokyo-np.co.jp/article/kanagawa/20150829/CK2015082902000135.html
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茅ケ崎市に住む沼井敏(さとし)さん(87)は、軍隊に入隊する予定の数カ月前に終戦を迎えた。祖父に連れられ、二歳下の弟と一緒に茅ケ崎海岸で地引き網漁を始めた。
茅ケ崎から藤沢の辻堂へと続く海岸沿い一帯は「旧日本海軍辻堂演習場」だった。戦後に米軍が接収し、「チガサキ・ビーチ」という通称で演習場として利用するようになり、沼井さんは演習を目の当たりにした。
茅ケ崎市史編集員会がまとめた文献によれば、米軍が最初に大規模な上陸演習を実施したのが一九四六年十月。朝鮮戦争が勃発した五〇年六月前後から、演習は数を増す。五二年四月発効のサンフランシスコ講和条約で日本の主権が回復した後も、茅ケ崎市藤沢市への事前通告なしに演習や訓練が行われることもあった。
演習で大きな被害を受けたのが、沼井さんら地元漁業者だった。「演習があると、漁はできない。何とか食べなくてはいけないから、夜暗くなって網をかけに行ったりした。あまり捕れなかったけど、そうするしかなかった」
砲撃演習で標的にされたのが、茅ケ崎のシンボルとして知られる「えぼし岩」だった。その様子を沼井さんは何度も目にした。「砲撃の音がすごかった。私たちはえぼし岩のてっぺんを漁業権の境界の目印にしていたんだけど、砲撃で岩の形が変わってしまったので困った。撃つのはやめてほしいと陳情したら、米軍はドラム缶を浮かべて標的にした」
豊かな漁場であるえぼし岩周辺をはじめ、演習区域は演習の影響で漁獲量が大きく減った。漁業者らは地元自治体とともに米軍に対し、補償や演習の中止を求める声を上げた。
その間、沼井さんは米軍と思いがけない接点を持っている。一九五〇年九月、台風の中、茅ケ崎海岸で行われた米軍の演習で上陸用舟艇が沈み、多くの米兵が海にのまれた。地元警察署の要請を受けた沼井さんは漁師仲間と船を出して米兵を助けた。数日後、米軍の上官らしき人物が感謝の言葉を英文タイプした書面を持って現れた。警察署長から感謝状も贈られた。
五二年九月には落下傘での降下訓練中、風に流されて、海岸から四百メートル沖の海に落ちた米兵を救った。このときも米軍関係者がやって来た。
沼井さんは陳情活動に参加しながら「戦争で負けたんだから、仕方ないかな」とも考えていた。米軍に対する憎しみや怖さは不思議と感じなかった。終戦間もないころ、自宅の軒先に数人の米兵が現れ、空腹らしいしぐさをした。そこでたくあんを出したら、丸かじりした。「日本人と変わらない」と思った。
五三年に朝鮮戦争が休戦し、チガサキ・ビーチでの演習は減っていく。そして返還を求める地元の運動が続き、五九年六月、返還が実現する。今、同じ海岸で人々はサーフィンに興じ、えぼし岩で釣り糸をたれる。 (吉岡潤)
  =おわり

日本海軍辻堂演習場> 茅ケ崎市史ブックレット(同市発行)によると、江戸時代、茅ケ崎・辻堂海岸砂丘地帯は「鉄砲場」と呼ばれ、徳川幕府の砲術演習場だった。明治時代、地元への払い下げなどを経て海軍が買い上げて、演習が始まり、太平洋戦争の終わりまで続けられる。同戦争末期には米軍の上陸、本土決戦に備えた陣地づくりが進められた。米軍が1946年3月に実施予定だった関東上陸作戦「コロネット作戦」では、九十九里海岸とともに湘南海岸が上陸海岸として想定され、その中心に茅ケ崎海岸が置かれていたとされる。