安保法案、参院審議―危機に立つ政治への信頼 - 朝日新聞(2015年7月28日)


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新たな安全保障関連法案が、きのう参院で審議入りした。
衆院の法案審議は無残な結果に終わった。
集団的自衛権の行使をどんな場合に認めるのか、法案の核心である存立危機事態についてすら政府の説明は不明確なまま、世論の強い反発のなかで、与党が数の力で採決を強行した。
国民が法案の中身を理解していないわけではない。理解すればするほど納得できない人が増え、審議を重ねるほど反対論が広がっていく。
日本で唯一、武力行使できる組織である自衛隊をどう動かすかの議論である。軍事抑制、国際協調を基本にしてきた戦後日本の歩みを大きく変える議論でもある。
何よりも大事なのは、幅広い国民の信頼と合意にほかならない。ところが現状では、それが決定的に欠けている。
憂うべき政治の惨状と言うほかない。国民の不信はなぜ、ここまで広がってしまったのか。

■危うい「結論ありき」
原因のひとつは、広範な国民の異論に耳を貸さず、結論ありきで押し通してきた安倍政権の政治姿勢にある。
政策上、どうしても集団的自衛権の行使が必要というなら、国民投票などの手続きをへて憲法を改正する必要がある。それが多くの憲法学者内閣法制局長官OBらの指摘だ。
安倍首相もそのことは分かっているのだろう。
思い起こせば、首相に再登板してまず訴えたのが、憲法改正のハードルを下げるための憲法96条の改正だった。これが「裏口入学だ」と批判を浴びるや、首相は迂回路(うかいろ)に突き進む。内閣法制局長官の首をすげ替え、解釈改憲をはかる閣議決定で事を済ませようとしている。
憲法は権力を縛るもの、という立憲主義を軽んずる振る舞いであり、憲法を中心とする法的安定性を一方的に掘り崩す暴挙でもある。
その結果、いま危機に立たされているのは政治と国民の信頼関係だ。法案が成立すれば、自衛隊が海外で武力行使できるようになる。信頼のない政権の「総合的判断」を、国民がどこまで信じられるのか、根源的な危惧を感じざるを得ない。
その行き着く先に何があるのか。自民党が野党時代の3年前に発表した憲法改正草案には、様々な制約をもつ自衛隊に代わり、国防軍の保持が明記されている。集団的自衛権は当然に認められ、憲法上、海外での武力行使も可能となる。

■軍事偏重の限界
憲法改正には時間がかかる。国を守るという目的さえ正しければ、憲法解釈の変更も許される――。政権はそう考えているのかも知れない。
しかし、衆院審議で焦点になった中東ホルムズ海峡の機雷掃海に、それだけの切迫性があるとは思えない。
朝鮮半島有事についても、すでに周辺事態法があり、その再検討と、個別的自衛権の範囲で対応可能だろう。
やはり法案の最大の目的は、軍拡と海洋進出を進める中国への対応に違いない。
政権としては、与党が衆参で圧倒的な数を持つ間に法案を通し、日米同盟と周辺諸国との連携を強化していくことで、中国への抑止力を高めたいということだろう。
だが、中国に近接する日本の地理的な特性や、両国に残る歴史認識の問題の複雑さを考えれば、中国と軍事的に対峙(たいじ)する構想は危うさをはらむ。
米国からは、南シナ海での自衛隊の役割強化を望む声も聞こえてくる。だが人口減少と高齢化にあえぐ日本の国力からみて軍事偏重、抑止一辺倒の考え方には、いずれ限界がくる。
本来、日米豪と東南アジア諸国連合ASEAN)、そこに中国も加えて協力しなければ、安定した地域秩序は築けない。長期目標はそこに置くべきであって、まずは米国と協力しながら中国との信頼醸成をはかり、その脅威を低減させる方がむしろ現実的ではないか。
これまでの法案審議で欠けているのは、こうした本質的な安全保障論である。

■周回遅れの安保論議
政権はことあるごとに「安全保障環境の変化」を強調している。しかし軍事に偏った法案には「周回遅れ」の印象がある。
非国家主体の国際テロに対しては、軍事力や抑止力の限界を指摘する声が一般的であり、この法案では回答にならない。原発テロが安全保障上の脅威となり、サイバー攻撃が重要な意味をもつ時代に、この法案がどのように役立つのか。そこもよくわからない。
政治手法にも法案の目的にも深刻な疑問符がついた状態で、信頼と合意なき方向転換に踏み切れば、将来に禍根を残す。
参院審議を機に、もう一度、考えたい。本質的な議論を欠いたまま戦後日本の価値を失うことの、軽率さと、罪深さを。