<金口木舌>戦火の新聞人たちの思い - 琉球新報(2020年8月6日)

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首里城の地下に日本軍が司令部を築いた。その壕に日本兵はもとより、沖縄出身の軍属や学徒に加え、女性たちも含めて千人余が雑居していたとされる
▼司令部壕の近くに新聞を印刷していた壕もあった。沖縄師範学校生が掘った留魂壕の一角に、地元紙の沖縄新報の記者らが詰め、司令部の広報担当から戦況などを聞いて記事を書き、壕内で印刷し、米軍の砲弾がやんだ隙を縫って新聞を届けた
▼戦争下での新聞発行は5月25日まで続いた。沖縄戦で14人の報道関係者が亡くなった。彼らの名前を刻んだ那覇市若狭の「戦没新聞人の碑」前で、今も毎年地元の報道関係者が戦争につながる報道はしないと誓う
▼横浜の日本新聞博物館ニュースパークで「戦後75年 沖縄戦と新聞人」展が催されている。戦没新聞人の碑を紹介しているほか、戦火の沖縄で新聞発行を続けた記者らの活動を伝えている
▼第2次世界大戦で広島に原爆が落とされて6日で75年。新聞関係者も被爆し亡くなった。その犠牲者を悼む「原爆犠牲新聞労働者の碑(不戦の碑)」では毎年慰霊祭が催され、戦後70年以上がたつ今も新たな名が刻まれる
首里城焼失以降、司令部壕の保存・公開を求める声が高まっている。県は年度内に、壕の保存・公開について専門家による検討委員会を設置する。併せて新聞人の壕の公開もぜひ望みたい。