(余録)先日亡くなった元沖縄県知事、大田昌秀さんは… - 毎日新聞(2017年6月23日)

https://mainichi.jp/articles/20170623/ddm/001/070/154000c
http://archive.is/2017.06.23-011912/https://mainichi.jp/articles/20170623/ddm/001/070/154000c

先日亡くなった元沖縄県知事大田昌秀(おおたまさひで)さんは沖縄戦の組織的戦闘の終末時に学徒兵として摩文仁(まぶに)近くの海岸にいた。丘の上の司令部から移動する途中、足を負傷して動けなくなる。軍司令官が自決したころだ。
「夜が明けた。静かな南国の朝にそぐわぬ陰惨な光景が眼前にくり広げられた。水ぶくれした無数の屍(しかばね)が打ち寄せられたかと思うと返す波で奪い去られた」。「死」は身近にあり、所持する手投げ弾に何度も手をやったが思い直した。
鉄の暴風(戦火)で倒れた学友、住民を壕(ごう)から追い出す友軍、自決直前の軍司令官もその目で見ていた。だが「ありったけの地獄を集めた」という沖縄戦の渦中で「戦争、戦争……」とひとりごちるしかなかった若き大田さんだった。
後に県知事選に出馬する際や、基地問題で政府と対立する時など、いつも決断にあたって摩文仁を訪れたのは死者たちの声が聞きたかったからか。その地に沖縄戦のすべての死者の名前を記す「平和の礎(いしじ)」を作り上げた県知事だった。
国籍も出身地も問わず、また民間人か軍人かもかかわりなく、二十余万人すべての戦没者の名を等しく刻んだ「礎」である。72年の歳月はこのモニュメントから沖縄戦の死者たちの声を世界へ届けようとした大田さんをも旅立たせた。
きょうは沖縄の「慰霊の日」。摩文仁戦没者追悼式典でも沖縄戦の実相を身をもって知る人々は年々姿を消していく。死者たちの声を聞く力をさらに、さらにとぎすまさねばならぬ今日の平和である。