共通テスト 独善の行き着いた果て - 朝日新聞(2019年12月18日)

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実施まで1年という時点で、大学入学共通テストから二枚看板が消えた。英語の民間試験に続き、国語と数学への記述式問題の導入も見送りが決まった。
安倍首相の肝いりでできた教育再生実行会議が、入試制度の変更を提言したのは13年だ。以来6年余を経て、改革論議はほぼ振り出しに戻った。壮大な無駄と言うほかない。
なぜこんな大失態を招いたのか。どう責任を取るのか。下村博文氏から萩生田光一氏に至る歴代文部科学大臣、省幹部、先導した有識者らは、国民にしっかり説明する責務がある。
記述式に関しては、かねて▽50万人もの受験生の答案を公平に採点できない▽自己採点との隔たりが大きい▽決められた言葉や数式が盛り込まれているかを確認するだけになり、思考力や表現力を測る試験たり得ない――などの指摘があった。
加えて国会審議では、受験産業の関連会社に採点を委託することが問題として浮上した。商売に悪用される懸念などを払拭(ふっしょく)できず、与党の提言を受ける形で見送りが決まった。
軌道修正の機会は幾度かあった。遅くとも2度の試行調査の分析結果が出た今年4月の段階で、自己採点をめぐる乖離(かいり)は深刻な課題に浮上していた。朝日新聞の社説は試行を増やすなどして改善を試みるよう主張したが、当時の柴山昌彦大臣以下、文科省は立ち止まろうとしなかった。構想の総崩れは、何ら合理的理由のない「20年度実施」にこだわった帰結だ。
本来、入試改革は各大学の個別入試や、高校や大学の授業改革と一体で進めるはずだった。それなのに共通テストという器ひとつにあれこれ詰め込もうとした。もろもろのひずみは、そこから生じたといえる。
「高校や大学の現場に任せていては何も変わらないから、自分たちが導いてやる」といったおごりはなかったか。「改革した」という実績づくりのため、無理を押して新機軸を打ち出そうとはしなかったか――。
そうした背景にまで踏み込んだ検証と反省、そして引責なしに「次の改革」に向けた議論を始めることは許されない。同様の混乱を繰り返すだけだ。
一連の経緯の中に救いを見いだすとすれば、当事者である高校生たちが文科省前に集まり、マイクを握って理路整然と制度の欠陥を訴え、あるいはSNSを使って数多くの署名を集め、世論を動かしたことだ。
入試改革の理念は思考力や主体性を育むことにあった。高校生は十分にその力を備えているし、伸びしろもある。図らずも政府を向こうに回した抗議行動によって、それが証明された。