(余録) 政府軍から逃れようと… - 毎日新聞(2019年10月30日)

https://mainichi.jp/articles/20191030/ddm/001/070/113000c
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政府軍から逃れようと北イラククルド人が隣国に殺到したのは緒方貞子(おがた・さだこ)さんが国連難民高等弁務官に就任して1カ月後だった。だがトルコは国境を封鎖、女性や子どもら約40万人が極寒の山中をさまよった。
1991年の湾岸戦争時のことである。当時、国内避難民は国連が支援すべき難民に当たらず、クルド難民支援には反対があった。だが緒方さんは「保護を必要とする人を保護するのが使命」と支援実施へリーダーシップを発揮した。
その後のボスニア紛争ルワンダ虐殺などでも、従来の支援の枠組みにとどまらぬ難民保護を次々に実現してきた緒方さんである。「変えようと思ったのではなく、必要に迫られて行動したら前のやり方とは違っていた」と振り返る。
世界をイデオロギーで二分した東西冷戦が終わり、各地で民族や宗教の自己主張が次々に噴出した当時である。そこから生まれる新たな「難民の時代」に向き合い、国家が守れない「人間の安全保障」を求めた緒方さんの活動だった。
5・15事件で殺された犬養毅(いぬかい・つよし)を曽祖父(そうそふ)にもち、外務省電信課長の官舎でノモンハン事件や第二次大戦勃発の電話を受ける父の姿を覚えていた緒方さんである。世界のリアルな姿を見失った日本の運命も自らの人生の一部として生きた。
その緒方さんは「積極的平和主義」を掲げながら今も難民受け入れに消極的な日本政府の姿勢を嘆いていた。世界のリアルと渡り合い、その使命を静かに果たすことでしか次代に伝えられぬ「遺言」もある。