(筆洗) 難民支援に尽力した緒方貞子さんが亡くなった。九十二歳。 - 東京新聞(2019年10月30日)

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子どもが川の中でおぼれている。心配はいらない。たとえばという話である。川岸でそれを人々が見守っている。「がんばれ」「ここまで泳ぎ切れば、温かい食べ物が待っているぞ」
おそらく、こんな場面に遭遇したら、その女性は自ら川の中に入り、子どもに手を伸ばすのだろう。国連難民高等弁務官として難民支援に尽力した緒方貞子さんが亡くなった。九十二歳。
その人は本当にそう決断したのである。一九九一年、イラクで大量のクルド人難民が発生し、トルコに向かう。が、トルコはこれを拒否する。難民条約では難民とは「他国に逃れた人びと」。国境を出ない限りは厳密には難民ではなく、国連難民高等弁務官事務所UNHCR)としては支援できない。それが当時の考え方だった。
国境を越えていなくても支援する。緒方さんは決めた。「(難民が)生きているからこそ保護できる。国際法がどうであろうと生き続けるようにする」
就任後二カ月足らずでの決断。スピード、現場主義。その人の仕事はいずれも人の命を守りたいという思いやりと情熱から生まれていた。
聖心女子大学時代、初代学長のマザー・ブリットさんにこう教えられたそうだ。「社会のどんな場所にあっても、その場に灯をかかげられる女性になりなさい」。思いやりの灯はどれだけ多くの人を救い、希望となったことか。灯が遠ざかる。