天皇と憲法(1) 未知の象徴をめざして - 東京新聞(2019年4月27日)

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今月末の天皇陛下の退位は近代天皇制では初となる。新天皇が即位し、「令和」が幕を開ける。憲法の観点から、日本の天皇制を考えてみたい。
象徴たる天皇というイメージは、日本国憲法の制定当時は誰もがつかみにくかった。明治憲法下ではむろん、万世一系の皇統を継ぐ天皇が現人神として君臨する-という根本の建前があった。
実は象徴の意味である「シンボル」の用語はまず、今では公になっている米国の機密電報に出てくる。一九四六年一月。連合国軍最高司令官マッカーサーから、ワシントンのアイゼンハワー参謀総長宛ての電文である。

◆「あこがれの中心」と
天皇はすべての日本人を統合するシンボルである。彼を滅ぼすことは、国を崩壊させることになる。日本人は、連合国の天皇裁判を自国の歴史に対する背信とみなし、憎悪と怒りを予見しうる限り長期にわたって永続させるであろう(以下略)>
その翌月には連合国軍総司令部(GHQ)側から示された新憲法案の中に天皇を「シンボル(象徴)」と記してあった。英国のウェストミンスター法などにも、王位を「象徴」と記していた。
しかし、新憲法制定の議会では、象徴とは何かが問われた。例えば四六年六月の帝国議会憲法担当大臣の金森徳次郎は「あこがれの中心として、天皇を基本としつつ国民が統合している」と説明している。それにしても「あこがれの中心」とは、いかにも抽象的である。
象徴とは何か-。この漠たる表現に最も悩まれたのは天皇陛下ご自身だったかもしれない。陛下がこのテーマについて考えを巡らしていたのは明らかで、退位の意思を事実上、示された二〇一六年八月八日のビデオメッセージに、それが色濃くにじんでいる。

◆国民の視界に入るよう
日本国憲法下で象徴と位置付けられた天皇の望ましい在り方を日々模索しつつ過ごしてきました」「国事行為や、その象徴としての行為を限りなく縮小していくことには、無理があろうと思われます」。そんなお言葉である。
憲法には国事行為のみが書かれていて、「象徴としての行為」に関する定めがない。国事行為とは首相や最高裁長官の任命などだ。法律や条約などの公布も、国会召集も、大臣らの任免も…。
憲法は「天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ、国政に関する権能を有しない」とも定めている。
そして、国事行為とは別に、天皇の私的な領域があることは自明の理である。私事である。しかし、天皇にいわゆる信教の自由などはあるのだろうか。もし、ないのなら、私人として全く自由な存在でもありえない。
だから、天皇にはまず象徴という地位があると考えるしかない。「象徴としての行為」とは、それを具現化するためのいとなみである。だから憲法に規定はないが、国事行為とも私事とも異なる重要な公的行為が「象徴としての行為」となる。具体的には国民に寄り添い、苦楽をともにする-。例えば各地の被災地を見舞い、アジアの各国を慰霊のために旅をする-。そのような行為の姿である。
ある喩(たと)えを用いよう。国内のどこにも天皇の姿が現れなくなったら…。国民の視界から天皇は消えてしまい、国民は象徴として考えにくくなる。だから、「象徴としての行為」こそ重要なのである。陛下が実践された旅する天皇像こそ象徴性を支えていると考えるのが自然ではないか。
在位中に起こった阪神大震災東日本大震災などの災害をお見舞いし、被災者を励ます。膝を折り、被災者に寄り添う姿は、陛下の時代から生まれた新しい象徴天皇の姿だったといえる。
ただし、旅する天皇像は、国民に象徴としての姿を現す一方、憲法にその定めがない故に、政治利用の余地もある点は、留意が必要である。天皇が「動く」ことだけで政治的な意味を持つからだ。沖縄やアジア諸国などへ「動く」ことにも当然、意味が発生する。政権が意図しての旅ならば、まぎれもなく政治的利用にあたろう。
五月一日に即位する新天皇は、グローバル時代にふさわしい旅をするかもしれない。新皇后は元外交官でもあったから…。

◆民主主義にふさわしく
皇室外交の花を開くかもしれない。だが、当然ではあるが、外交は政治なのであり、あくまで儀礼の枠を出ない国際的な社交にとどまらねばならない。
憲法天皇に政治的行為を禁止した理由は、戦前の歴史を蘇(よみがえ)らせないためである。陛下は憲法に忠実に民主主義にふさわしい天皇像を実践されたと考える。国民の共感が生まれるゆえんである。