(主席公選50年)自治の要求はやまない - 沖縄タイムス(2018年11月10日)

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「主席公選」が実現してきょうでちょうど50年になる。 1968年11月10日という日付は、沖縄にとって特別の重みを持つ。
占領初期、米軍は事あるごとに「沖縄を民主主義のショーウインドーにする」と語った。
沖縄を4群島に分割し、50年に実施された群島知事選挙は、自治民主化への期待を高めた。だが、それもつかの間、群島政府はわずか1年半で解消された。
沖縄の恒久的な統治を前提に、52年、琉球政府が設置される。沖縄住民は琉球政府の行政主席を選挙で選ぶことができなかった。
民政副長官(のちの高等弁務官)が直接任命するか、立法院の意向をくみ入れて任命するか、時期によって選出方法は異なるが、米国民政府は選挙を拒否し続けた。
公選によって反米的主席が誕生するのをおそれたからだ。戦後の沖縄は憲法が適用されず、軍事上の必要がすべてに優先された。
主席公選は、その大きな壁を突き破り、自治民主化を実現しようとするものであり、政治的な立場を超えた沖縄住民の悲願だった。
9・11%という驚異的な投票率が住民の関心の高さと期待の大きさを如実に示している。
50年の節目の年だから主席公選を取り上げるのではない。主席公選に託した沖縄住民の「自治への願い」が、復帰から46年たっても実現されていないからである。状況はむしろ悪化する一方だ。

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主席公選は、革新共闘会議が推す屋良朝苗氏と日米両政府の支援を受けた西銘順治氏の争いとなり、沖縄の「即時無条件全面返還」を掲げた屋良氏が3万票あまりの差をつけて当選した。
68年体制と呼ばれる保革対立の構図が鮮明になったのはこの時からである。
琉球政府は復帰に対する沖縄の声を政府と国会に伝えるため連日、検討を重ね、約5万5千字に及ぶ建議書を作成した。
平和の希求や人権の回復などの要求に加え、「明治以来、自治が否定された過去を省みて地方自治は特に尊重されなければならないこと」を強調しているのが特徴だ。
沖縄戦や米軍統治の体験に根ざした「沖縄のこころ」を定式化したものであった。
屋良主席は71年11月、建議書を携えて上京した。だが、沖縄返還協定は、建議書を手渡す前に、国会で強行採決されてしまった。

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辺野古の新基地建設をめぐる安倍政権の対応は、三つの点で際立っている。
第一に、沖縄の戦後史に対する理解を決定的に欠いていること。第二に、選挙で示された民意を無視し続けていること。第三に、法律を都合のいいように解釈したり一方的に解釈変更するケースが目立つこと、だ。
主席公選を実現させた自治権獲得運動は、事実上の軍事植民地の中で、住民が尊厳を取り戻す運動でもあった。
その取り組みは軍事植民地から脱却したはずの今も、終わっていない。