奄美復帰65年 琉球弧として共に発展を - 琉球新報(2018年12月25日)

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先の大戦後、米国統治下に置かれた奄美群島が1953年に日本へ復帰してから25日で65年の節目を迎えた。
自治よりも米軍の運用が優先され、住民の人権がじゅうりんされた状況から脱しようと、復帰を目指した経験は沖縄と共通する。日本本土から切り離されたサンフランシスコ講和条約発効の日を、沖縄では「屈辱の日」と呼ぶように、奄美では「痛恨の日」と位置付けている。
貧困や食糧難に耐えながら、住民の99%の署名を集め、断食で抗議するなど群島ぐるみの復帰運動は、住民が強大な米軍と対峙(たいじ)し、自治を獲得した貴重な歩みとして記憶にとどめなければならない。
振り返ると、日本本土、奄美、沖縄がたどった歩みは分断の歴史である。奄美群島は1609年、琉球王国への薩摩侵攻により琉球から分割され、薩摩藩支配下に置かれた。1879年の琉球併合(「琉球処分」)後は鹿児島県の一部となり、戦後は本土と切り離された。
日本復帰後も沖縄在住の奄美出身者は「非琉球人」として外国人登録を義務付けられた。公職を追放され、参政権や財産取得権を奪われるなどの苦難を強いられた。
元県教育長の津留健二さん(85)は高校時代に奄美群島で日本復帰を求める署名運動に参加し、琉球大の学生時代には沖縄の復帰運動に身を投じた。沖縄に母を呼び寄せる際には永住権取得に2年もかかり、大学卒業後は、琉球政府が設けた学校の教員になれなかった。
津留さんは「戦争は奄美と沖縄を日本から切り離し、さらに奄美を沖縄から切り離した」と語る。こうした分断に伴う人々の苦しみを忘れてはならない。
一方で、奄美と沖縄は苦難の歴史だけではなく、豊かな自然環境、唄・三線・踊りなどの伝統文化、ゆい(助け合い)の精神など共通の風土を有している。これら可能性に富む資源を今後に生かさない手はない。発展に向けて共に手を携えれば相乗効果も期待できるはずだ。
 奄美と沖縄は、日本復帰後の振興策で道路などのインフラ整備は進んだ。その一方で、島々から成るため物流コストがかかることや交通網の整備、過疎・高齢化、低所得、自治体の国への財政依存など共通の課題を多く抱えている。
しかしお互い「2周遅れのトップランナー」と言われるように、飛躍のチャンスが見えてきた。入域観光客数は着実に増えている。11月に世界自然遺産への推薦が決まった「奄美大島・徳之島・沖縄島北部および西表島」の登録に向けた取り組みや観光ネットワークの形成、農林水産業の技術交流など連携して発展できる要素はいくらでもある。
分断の歴史を乗り越え、新しい未来を切り開くためにも、同じ琉球弧として一体的に発展する構想や取り組みを一層推進する必要がある。<<