武者小路実篤の「新しき村」100年 埼玉・毛呂山に今も 村民減り、存続に危機感 - 東京新聞(2018年11月6日)

http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201811/CK2018110602000271.html
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白樺(しらかば)派の作家・武者小路実篤(むしゃこうじさねあつ)(一八八五〜一九七六年)の理想を体現した農業共同体「新しき村」が、宮崎に誕生してから十四日で百年を迎える。食事や住居を村が保証し、村人は一定の労働以外は自由に個性を伸ばしながら生きる−。村の主力は埼玉に移ったものの、「人間らしく生きる」という実篤の精神は引き継がれた。村人の減少で存続が危ぶまれる中、関係者は次の百年を見据えている。 (井上峻輔)
埼玉県中西部の毛呂山(もろやま)町中心部から一・五キロほど離れた丘陵地帯。「この道より我を生かす道なし この道を歩く」。「新しき村」の入り口では、実篤の言葉を記した標柱が出迎える。約十ヘクタールの敷地は緑に囲まれ、少し古くなった平屋の家屋が点々と立つ。
住民は現在、四十〜八十代の夫婦二世帯と単身者四人の計八人。「特別な場所じゃないですよ。普通の人が普通に生きているだけ」。田んぼで稲刈りをしていた小田切正雄さん(51)は、そう言って笑った。
実篤は「人間らしく生きる」「自己を生かす」と提唱し、一九一八年、宮崎県木城(きじょう)村(現・木城町)に「新しき村」を開村した。ダム建設で村の一部が水没するのを機に、三九年、本拠を毛呂山町に移転。四八年には村を財団法人化した。木城町の残った村の土地では現在も三人が暮らし、創設の地を守っている。
村の決まりは、開村当時とあまり変わらない。稲作やシイタケ栽培などの労働を分担し、三食と住居は無料で提供される。「一日六時間、週休一日」の義務労働は、今ではそれほど厳密ではないという。労働以外の時間は、自由に「自己を生かす」ことが推奨され、過去には絵画などの創作活動に力を入れた村人も多かった。私有財産も否定せず、毎月三万五千円の個人費が支給される。
「使う側も使われる側もない。知らない人が集まり、自己を生かすために暮らす生活に驚いた」。財団法人理事長の寺島洋(ひろし)さん(76)は、初めて村を訪れた二十歳の頃を振り返る。村での生活が半世紀を超えた今、「ほそぼそでも次の世代に引き継ぎたい」と願う。
とはいえ、現状は厳しい。村の外に住みながら活動を支える「村外会員」の小島真樹(まき)さん(76)は「消滅は時間の問題」と明かす。
八〇年代に六十人を超えた村人は徐々に減少し、平均年齢は六十歳を超えた。収入の柱だった養鶏は、卵価の低下や人手不足で三年前に終了。太陽光発電など新たな収入源を模索するものの、収支は赤字が続き、過去の積立金を崩して何とかしのぐ状況だ。
労働基準法など働く人を守る法律が未整備だった開村当初と比べると、世の中では労働時間の短縮や週休二日制化が進んだ。「村は歴史的役割を終えたかもしれない」と小島さん。一方で長時間労働や過労死問題がなくなったわけではなく、「社会の格差が拡大している今こそ、村が必要では」とも考える。
調布市武者小路実篤記念館(東京都)理事長で、実篤の孫の武者小路知行(ともゆき)さん(71)は「百年前とまるで違う世の中でよく続いているなと思う。ここで終わりにはしたくない。百周年が次の百年への一歩になってほしい」と期待を寄せる。

武者小路実篤> 明治〜昭和期の小説家・劇作家。1910年に志賀直哉らと文学雑誌「白樺」を創刊。代表作に「お目出たき人」「友情」などがある。18年に宮崎県に「新しき村」を開設。25年まで生活し、その後は村外から村を支えた。日本画や書も多く残し、村内の美術館に展示されている。