https://www.nikkei.com/article/DGXMZO24171700R01C17A2EA2000/
http://archive.is/2017.12.02-004135/https://www.nikkei.com/article/DGXMZO24171700R01C17A2EA2000/
政府は1日の皇室会議を踏まえ、天皇陛下が2019年4月30日に退位する日程を閣議決定する。退位を実現する特例法が6月に成立し、政府が退位時期の決定に向けた検討を本格化して以降、宮内庁と首相官邸は妥当な時期を巡り駆け引きを続けた。皇室の事情への配慮を求める宮内庁と、政治決定を重視する首相官邸の溝が浮かんだ。
1日の皇室会議。10人の議員が円状に座るなか、メンバーでない菅義偉官房長官が輪に入った。議長の安倍晋三首相と真向かいの位置で首相の補佐役としての陪席。宮内庁関係者は「しつらえは官邸側の指示だ」と明かす。退位時期について協議する会議の進行に、にらみをきかせる官邸側の意思を読み取った。
会議は午前9時46分に始まり、午前11時に終了した。出席者によると冒頭、首相が陛下の退位と皇太子さまの即位の日程について意見を聞く場だとの趣旨を説明。菅氏が退位特例法の内容を話した。各議員が意見を表明し、首相が19年4月末退位の日程を会議の意見として決めた。
6月に退位特例法が成立し、政府内で退位時期の調整が本格化した7月、官邸の高官は宮内庁の対応に「彼らはすぐに陛下の意向と言うが、間接的に確認してみるとそうではないこともある」と不満を漏らしていた。
官邸が昨年から探ってきたのは「18年12月末退位・19年元日改元」案。陛下が退位の意向をにじませる昨年8月のビデオメッセージで「平成30年(2018年)」に触れたからだ。18年の誕生日に85歳を迎えられる区切りの良さもあった。
先手を打ったのは宮内庁だった。「1月1日は皇室にとり極めて重要な日。譲位、即位に関する行事を設定するのは難しい」。西村泰彦次長が今年1月17日の定例記者会見で18年末退位案について難色を示した。宮内庁が退位を巡って公の場で異例の言及をしたことに、菅氏は「政府の立場でコメントは控えたい」と言葉をのみこんだ。
「なんだかんだ言っても陛下のお気持ちというのは本当に大きい」。退位特例法の成立後、退位時期をめぐり宮内庁との調整に入るにあたって、官邸の高官はこぼした。
宮内庁がこだわったのは19年1月7日。昭和天皇の死去から30年の式年祭をいまの天皇陛下で開くことだった。官邸に求めたのは「19年3月末・4月1日改元」案。年度替わりの節目でもある。同庁関係者によると、官邸側に年末年始と3〜4月の皇室行事を示し、どちらが皇位継承に伴う陛下と皇太子さまの負担が少ないか説明した。
「宮内庁の意向は配慮するが、官邸も言うべきことは言う」。12月末退位案にこだわらないことにしたが、宮内庁が要望する3月末退位案にはすんなり乗れなかった。
退位を実現する特例法は退位の期日を政令で決めると定める。主体は政令を閣議決定する内閣で、そのトップは首相だ。「最後は政治が決めるんだ」(官邸幹部)
政治判断のメンツにこだわったのにはほかにも理由がある。
そもそも天皇の退位は憲法や皇室典範に規定がなく、退位の行為自体が憲法4条が禁じる政治関与や政治利用につながる懸念があった。官邸側は当初「(天皇に代わって国事行為を行う)摂政制度の活用ではダメか」と同庁を通じて陛下の翻意を促したが宮内庁側は認めず、恒久制度による退位実現にこだわった。
いまの陛下一代限りの退位を認める特例法の制定は妥協の末に浮かんだ解決策。首相は「陛下の思いをそんたくした」と周囲に漏らした。憲法違反ギリギリの政治判断を下したことで、宮内庁側の意向がその後も強く出過ぎることへの危機感が根底にあった。◆ ◆
首相官邸側の「反撃」が始まった。検討していた年末退位案と3月末退位案の2案に加え、退位を天皇誕生日の12月23日などに前倒しし、陛下や皇族の負担軽減を図る案なども模索した。官邸関係者は「9月には5案になった」と明かす。
そのうちの一つが「19年4月30日退位・5月1日改元」案だった。年度替わりは異動時期で、国民生活にせわしなさもある。19年4月末退位は、予算案審議や統一地方選が終わった後で静かな環境で迎えられ、祝賀ムードを夏に迫る参院選にひき付けられる利点もあった。何より宮内庁ペースでの決定を嫌った。
「まったく知らない。分からない」。宮内庁の山本信一郎長官は11月21日夜、19年4月末退位案が浮上したとの報道を受け、同庁長官室前で記者団に硬い表情で繰り返した。ある宮内庁幹部は「12月1日の皇室会議の日取りを聞いたのが21日夜。4月末退位案は寝耳に水で長官も知らなかったと思う」と話す。
「4月末」という国民的に決してきりの良くない退位時期。それ自体が、官邸と宮内庁の溝の深さを物語る。