憲法公布71年 平和主義は壊せない - 東京新聞(2017年11月3日)

http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/editorial/CK2017110302000160.html
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七十一年前の今日、日本国憲法が公布された。それが今や自民党の九条改憲論で揺さぶられる。平和主義がこの憲法の大価値観であることを確かめたい。
日本国憲法では国民の権利などを定めた第三章の前、第二章に戦争放棄が置かれている。
天皇が第一章であるから、日本国憲法の特徴をよく表した順に書かれていると説明されることが多い。だが、憲法学者の杉原泰雄一橋大学名誉教授は違う解釈をしている。なぜ権利より戦争放棄が先なのか。杉原氏が子ども向けに書いた「憲法読本」(岩波ジュニア新書)でこう説明する。
◆「戦争は国民を殺す」
<伝統的には、軍隊と戦争は、外国の侵略から国家の独立と国民の基本的人権を守るための手段だと考えられてきました>
明治憲法下の戦争は、一般の国民にも他の諸民族にもたいへんな損害と苦痛をあたえました。そして、とくに広島と長崎の経験は、戦争が国家の独立と国民の基本的人権を守るものではなく、国民を皆殺しとするものに変質したことをはっきりと示すものでした>
太平洋戦争だけでも、死者・行方不明者は三百万人を超え、沖縄では県民の三分の一が殺された。広島・長崎での犠牲は言うまでもない。アジア諸国の犠牲も…。
戦争をしては人権を守るどころか、人命や財産まで根こそぎ奪われてしまう。平和なしには基本的人権の保障もありえない。そんな思想が憲法にあるというわけだ。
一つの見方、解釈である。しかし、深い悔悟を経て自然に出てくる見方であり、さらに将来への約束でもあるだろう。
このことは憲法前文からも読み取れる。平和主義が大きな価値観として書かれているからだ。短い文章の中に「平和」の文字が次々と現れる。
◆前文に「平和」の星々が
<日本国民は、恒久の平和を念願し…><平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して…><われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しよう…><平和のうちに生存する権利を有する>
かつ前文は民主主義や国民主権、平和主義を「子孫のために」や「恒久の」「永遠に」などの言葉を尽くし、将来にわたり保障されることを誓う。人類普遍の原理に基づくから、「これに反する一切の憲法(中略)を排除する」とも明確に述べている。
だから、この原理に反する憲法改正論は当然、許されない。平和主義もまた、それを打ち壊してはならないと考える。
他国の憲法にも変えられない部分は当然存在する。例えば、ドイツ憲法ナチスの反省から国民主権と人権の改正は行えないし、フランス憲法では共和国制の改変はできないなどと書き込んでいる。
日本国憲法でも基本的人権については「侵すことのできない永久の権利」と記す。平和主義も前文を読む限り同等であろう。つまり原理として書かれているのではないか。
自民党は九条に「自衛隊明記」の改憲論を打ち出している。まだ具体案が見えないが、単なる明記で済むのか。戦力不保持と交戦権否認との矛盾が問われ、論争が再燃しよう。何せ違憲とされる「集団的自衛権行使」ができる自衛隊に変質している。
それだけでない。憲法に書かれる機関は、天皇、内閣、国会、裁判所、会計検査院である。そこに自衛隊が加われば格上げは必至で防衛費は膨らむだろう。
今や核兵器保有論者さえも存在する。周辺国の脅威を喧伝(けんでん)すれば、なおさら日本が軍拡路線を進み出し、軍事大国への道になりはしないか。それは憲法が許容する世界ではあるまい。平和主義からの逸脱であろう。「自衛隊明記」の先には戦争が待ってはいないか、それを強く懸念する。
今はやはり憲法前文が掲げる原点に立ち返って考えるべきときなのではなかろうか。
吉田茂内閣で憲法担当大臣だった金森徳次郎は、七十年前の憲法施行日に東京新聞(現在の中日新聞東京本社)の紙面で、日本国憲法の本質を寄稿している。名古屋市出身で旧制愛知一中から東京帝大、大蔵省を経て法制局長官。戦時中は失職したが終戦後、貴族院議員に勅任された人物である。
◆必要なのは皆の英知
<今後の政治は天から降ってくる政治ではなく国民が自分の考えで組み立ててゆく政治である。国民が愚かであれば愚かな政治ができ、わがままならわがままな政治ができるのであって、国民はいわば種まきをする立場にあるのであるから、悪い種をまいて、収穫のときに驚くようなことがあってはならない>
一人一人の英知がいるときだ。