<風船爆弾の記憶>(3)軍国少女 「加害者だったかも」:群馬 - 東京新聞(2017年10月27日)

http://www.tokyo-np.co.jp/article/gunma/list/201710/CK2017102702000159.html
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内堀ヨシノさん(86)=埼玉県所沢市=が県立前橋高等女学校(前橋高女、現前橋女子高)の門をくぐったのは一九四三(昭和十八)年の春だった。
制服のスカートの裾にある二本の白線が少女のころからの憧れだった。
戦局の悪化は、ささやかな幸せも奪い去った。
敗色が濃厚となった翌四四年三月、「決戦非常措置要綱」に基づく「学徒動員実施要綱」が閣議決定され、学徒の通年動員が始まった。前橋高女生の誇りだったスカートはもんぺに代わった。敵国語だとして、英語の授業もなくなった。
同年「十二月に入って岩鼻学校工場(陸軍第二造兵廠岩鼻製造所)で風船爆弾作りが始まった。十一月十三日から生徒二十人が一週間、岩鼻に泊まりこんで新作業の講習を受け(た)」(前橋女子高校六十年史下巻)。風船爆弾の気球用原紙になる和紙の貼り合わせは校庭や体育館、教室や廊下でも行われた。
内堀さんは、校庭で畳一畳ぐらいの板に和紙をこんにゃく糊(のり)で貼り合わせる作業だった。翌年二月の作業日誌にはこう記述されている。
五日 板を庭にはこび出した。(中略)薄糊の上をこする手には力がはいる。冷たさを通りこして痛くなる。手の毛細管が凍ってしまったやうだ。(中略)一日も早く、目的数量を突破しよう
手のあかぎれから血がにじんでも、「兵隊さんに申し訳ない」と、手袋は着けず素手で通したという。
十四日 「お国の為に頑張らう」といふ固い決意で始めた原紙作業もだんゝなれて製品が多く出るやうになった
十八日には、米国での風然爆弾の戦果を伝える記事が新聞に載った。
今朝新聞に出た。『「日本文字の書いてある気球爆弾米本土に落下」、その言葉こそは私達が長い間待ちに待った言葉なのだ。あゝ、私達の仕事は遂に報ひられたのだと思ふと有難くて仕方がなかった』。だが、その時伝わった戦果はのちに事実ではなかったことが判明した。
空襲警報は頻繁にあったという。学校まで五キロの道のりを通学中に機銃掃射に襲われ、自転車ごと川に飛び込んで命拾いしたこともあった。
終戦の日。神風が吹いて日本が勝つことを信じて疑わなかった軍国少女の夢は砕かれる。「今日という日が忘れられるか、日本国民として。日本が降伏した。馬鹿な。そんな事が信じられるか」とつづった。
米国オレゴン州で四五年五月、日本が飛来させた風船爆弾による民間人の犠牲者が出たことは、約八年前まで知らなかった。
内堀さんは「自分たちが加害者だったかもしれないと、複雑な気持ちになった。疑いも持たず、『何てことをしてしまったのか』と」と自責の念に駆られた。(日誌の抜粋は原文ママ