<風船爆弾の記憶>(1)お国のため 「勝つと信じていた」:群馬 - 東京新聞(2017年10月25日)

http://www.tokyo-np.co.jp/article/gunma/list/201710/CK2017102502000168.html
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畳一畳よりひとまわり大きな張り板に、白い和紙を重ねていく。こんにゃく糊(のり)で気泡が入らないように貼り付ける。
真冬の学校の校庭。靴下もなく、はいている運動靴はぼろぼろ。空っ風が寒かった。力を込めて紙をこする。指先の皮膚が丸く、白く透けたようになり、切れて血がにじんだ。「すべてはお国のため。これがアメリカに落ちればわたしたちは勝つ」。県立高崎高等女学校(高崎高女、現高崎女子高)の村田喜代子さん(87)=高崎市=は信じて疑わなかった。
村田さんは、風船爆弾に使う気球用原紙を和紙を貼り合わせて作る担当だった。こんにゃく糊を作る係もいた。火薬を袋に詰める人もいた。毎朝届く火薬を天秤(てんびん)で量って袋に詰め込み、ミシンで縫い口をとじた。縫い目にはシンナー系の接着剤を塗る。十代の少女たちがそれを担った。
日本で初めてダイナマイトの製造を始めた高崎市内の東京第二陸軍造兵廠(しょう)岩鼻製造所(現在の「群馬の森」一帯)。気球用原紙に使う和紙などはそこから学校に持ち込まれたとみられる。
村田さんは岩鼻製造所の招きで、成形された気球を見学したことがある。「紙風船を大きくしたような形。秘密兵器を見せてもらって感激した」
一九四二(昭和十七)年に入学。前年に真珠湾攻撃で日米が開戦していた。
戦局が悪化する中で、四四年三月には「決戦非常措置要綱」に基づいて「学徒動員実施要綱」が閣議決定され、高等女学校などで通年動員が決まった。
高崎高女にも学校工場が開設された。「講堂、雨天体操場、東館一教室、旧校舎前に急造されたバラック四教室が利用され、三、四年生が主力となって風船爆弾の製造や薬包作業に従事した」(高崎市教育史下巻)
高崎高女が岩鼻製造所の分工場で、気球用原紙の貼り合わせだけではなく、気球自爆用火薬製造も担っていた可能性があるとみているのは、明治大学平和教育登戸研究所資料館(川崎市)の特別嘱託学芸員塚本百合子さん。「冷たい風が吹く屋外で冷たい糊を使用した貼り合わせ作業、危険と隣り合わせである火薬製造作業は十四〜十六歳の少女たちの手によってすべて行われた」と指摘する。
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夫もまた、戦争に翻弄(ほんろう)された。原爆が投下された後、軍医で救援のため広島市内に入った。川は死体で埋まっていた。やけどを手当てしようとしたが、どうにもならない。水を飲ませるのがやっとだった。「地獄だった。あんな悲惨な光景は見たことがない」。広島のことを話したがらない夫が生前それだけは教えてくれたという。夫も被爆し、被爆者健康手帳があった。
二〇一六年五月。オバマ米大統領が現職大統領として初めて、広島市平和記念公園を訪れた。その映像をテレビで食い入るようにして見た村田さんは、感情が込み上げるのを抑えきれなかった。「これでやっと許せる」。そんな気がしたという。
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風船爆弾とは何だったのか−。埼玉県小川町で気球用原紙に使われた和紙を見学したり、登戸研究所資料館を訪れたりして、十代の女学生としてかかわった戦争と今も向き合っている。村田さんは明大生田キャンパス内で二十一日に開かれた風船爆弾の作戦に関与した人たちの証言会に招かれ、初めて公の場で証言した。
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教室が軍の工場だった時代があった。「秘密兵器」の製造を担ったのは、十代の女学生だった。戦後七十二年。風化しつつある戦争の記憶を、当時の女学生たちの証言からたどる。
(この連載は大沢令が担当します)

風船爆弾> 正式名称は「ふ号兵器」。太平洋戦争末期に行われた「秘密戦」の一つ。旧陸軍の要請で、登戸研究所(第9陸軍技術研究所)が米国本土を直接攻撃する兵器の研究開発の場になった。和紙をこんにゃく糊(のり)で貼り合わせ、水素ガスを注入した気球に爆弾を吊(つ)り、偏西風に乗せて太平洋上を約9000キロ飛行させた。千葉県一宮、茨城県大津など3カ所から約9300発が放球され、1945年5月には米国オレゴン州でピクニック中の子どもら6人が風船爆弾に触れて死亡した。