http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/editorial/CK2016101802000135.html
http://megalodon.jp/2016-1018-0939-59/www.tokyo-np.co.jp/article/column/editorial/CK2016101802000135.html
原発慎重派が勝利した新潟県知事選。地元柏崎刈羽原発再稼働への賛否にとどまらず、3・11後、多くの国民の中に芽生え、膨らみ、臨界に達しつつある感情を代弁した結果ではないのだろうか。
「県民の命と暮らしを守れない現状で、再稼働は認められない」
当選した米山隆一氏は、繰り返す。泉田裕彦知事が、かたくなといわれながらも貫き通した基本姿勢を継承するということだ。
泉田知事は、原発再稼働をただ拒絶してきたわけではない。
東京電力福島第一原発事故を、県として独自に検証し、避難計画を審査しない原子力規制委員会にも疑問を投げかけた。
世界最大級の東電柏崎刈羽原発を抱える自治体の長として、当たり前のことをしてきただけだ。
柏崎刈羽原発の運転開始は一九八五年。新潟県は福島同様、首都圏に明かりをともし続けてきた。
県民には、日本のエネルギーを支える自負もあっただろう。電源立地に伴う交付金は、確かに地域を潤した。
しかし、3・11がすべてを変えたのだ。同じ立場の福島で、多くの県民が故郷を追われ、仕事をなくし、後からやって来るかもしれない放射線障害へのおびえを抱いて暮らしている。
十分な補償はされず、科学の粋を尽くしても、完全な除染は不可能、原発のむくろの中に流れ込む汚染水ひとつ止められない。不安を感じて当然だ。
一方、当の東電は、電気が足りているにもかかわらず、命より、暮らしより補償より、自社の収益改善を最優先するかのように、柏崎刈羽の再稼働を急ぐ。
政府はといえば、廃炉費用や福島の補償費を過去にさかのぼって電力消費者に“つけ回し”することを企てているようだ。
規制委は、再稼働に向けて柏崎刈羽を優先審査するという。どこもかしこも、安全は二の次だ。
知事選の結果は、県民の不安や不信と言うよりも、怒りに近い感情の表れなのではあるまいか。
それはもはや、新潟や、七月の知事選で川内原発にノーを突きつけた鹿児島のような原発立地県だけにとどまらない。
地震国日本に暮らす、多くの都道府県民に、そして“国策”による不祥事のつけ回しにさらされる電力消費者に、共通する思いでもあるだろう。
新潟県民は、「国民」の代弁をしたのである。