敬老の日に考える 宝の言葉を平和の種に - 東京新聞(2016年9月19日)

http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/editorial/CK2016091902000149.html
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何か大きなものが後ろから、近づいて来るようです。おじいさん、おばあさん、戦争の話をしてください。私たちは宝の言葉を平和の種に変えてまく。
百年の歴史が残した宿題でした。
愛知県大府市至学館大学助教を務める越智久美子さん(39)は十年前、母校でもある学園の百年史の編纂(へんさん)を任された。

<昭和20年6月/名古屋大空襲、学徒動員で愛知時計船方工場に動員されていた学生や、本学の学生31名と教諭1名が爆死>
旧来の資料を引き写し、分厚い本文の末尾に添えた「沿革」のこの数行、とりわけ<31>という数が、なぜか頭を離れなかった。
太平洋戦争末期の一九四四年、学徒勤労令、女子挺身(ていしん)勤労令の名の下に、女学生も「準軍属」として軍需工場で働かされた。
当時の愛知時計電機は精密機械造りの実績を買われて軍需部門を拡大し、兵器の製造を主力に据えていた。関連の愛知航空機は、中島や三菱と並ぶ戦闘機の生産拠点。当然、空襲の標的でした。
四五年六月九日の熱田空襲。米軍は、名古屋市熱田区の愛知時計船方工場周辺に、五百キロ〜一トンの爆弾計約五十発を投下した。
今、愛知・名古屋が誇る航空宇宙産業は、このような歴史の上に立つ。愛知県の学徒の死者は全国最多といわれています。
学園史編纂を機に越智さんは、近現代史を講じ始めた。その後、男の子に恵まれた。
ところが「戦後七十年」が近づくに連れ、なぜか気持ちがもやもやとして落ち着かない。
学生や子どもたちの行く末に漠然とした不安を感じ、空襲で亡くなった<31>人の名前を知りたくなった。
可能なら、その人たちが、どのように生き、どのように死んだのか、短すぎた人生を、今という時代に問うてみたい。
調査を始めた越智さんが訪ね歩いた卒業生は、約百人。徴用があった当時は、十二歳から十五歳という人たちです。その時すでに卒寿に近い先輩たちの記憶もたぐり、厚生労働省靖国神社の記録などとも照合し、<34>人の名前をすべて明らかにすることができました。<31>より多かった。

◆手触りを知りたくて
事実を掘り起こすだけでなく、たとえば防空壕(ごう)の中の臭いや暑さ、窮屈さなどを感じ取り、戦争の怖さにもっと近づきたい。
越智さんが、徹底してリアリティー(現実感)にこだわるのには、わけがある。
三年前、自宅で突然激しい頭痛に襲われて、病院に運ばれた。手足は動かず、声も出せなかったのに、意識だけは明瞭でした。
くも膜下出血か。まだ三十代なのに」。誰かの声が耳に届いた。「うそでしょ。私、死んじゃうの…」。怖かった。
治療は奏功、奇跡のように回復できた。一種の臨死体験が生への思いをかき立てた。日常を理不尽に奪い去る戦争というものの本質、つまり「死」に、少しだけ手を触れたようでした。その手触りを先輩たちの言葉を借りて目の前の学生たちに伝えたい。
絶望的な戦局も、工場で何を造るのかさえも知らされぬまま、先輩たちは、ただ「お国のために」と駆り立てられていきました。
作業中、意味もわからず陽気に軍歌を口ずさみ、“同僚”の男子に心ときめかせたりもしたそうです。
本物の恐怖を知ったのは、間近で爆弾が炸裂(さくれつ)し、全身で“地獄”を感じた瞬間でした。しかしそれではもう遅い。「うそでしょ」と口にするいとまもないままに、多くの命が消えていったのです。
越智さんの聞き取りに答えた卒業生の元教師、名古屋市北区の粕谷俶子さん(90)は、体中から言葉をほとばしらせた。
「知らないことが恐ろしい。知らされないのは、なお怖い。普通なら思い出したくもないことも、こんな不安な世の中だから、語らずにはいられません」

◆私たちの戦争だから
越智さんはこの五月、集めた資料と証言を「私たちの戦争」というタイトルの本にした。
そう、あの戦争は、私たち自身のものにもなり得ると、若い世代にリアルに感じてもらいたい。
「私たちの戦争」を、もう二度と繰り返すことがないように、体験者の皆さんの“宝の言葉”を聞き取り、伝え、“平和の種”に変えていかねばなりません。