炉心溶融隠し 安全文化はどこにある - 東京新聞(2016年6月18日)

http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/editorial/CK2016061802000137.html
http://megalodon.jp/2016-0618-0949-04/www.tokyo-np.co.jp/article/column/editorial/CK2016061802000137.html

深刻な事態の公表が遅れても、対応マニュアルの存在に気づかなくても、不当ではなく、社内の空気のなせるわざ−。第三者検証委員会の報告はそう読める。東京電力に安全文化は根付かないのか。
大事なことは、ほとんど何も分からなかったということか。
東京電力の「原子力災害対策マニュアル」では、核燃料損傷の割合が5%を超えれば、炉心溶融メルトダウン)と判定することになっていた。核燃料が溶け落ちて、原子炉の底にたまってしまう、つまり重大な事態である。
マニュアルに従えば事故発生から三日後に、福島第一原発は、メルトダウンしたと判定され、公表されるべき状況だった。
ところが東電は五月まで、「炉心損傷」と過小評価し続けた。マニュアルがあること自体、五年もの間、気づかれていなかった。
正確で速やかな情報の伝達、公開は避難の在り方を左右する。住民の命に関わる問題だ。安全軽視にもほどがある。
なぜ、このようなことが起きたのか。当然浮かぶ疑問の声に、真摯(しんし)かつ、つまびらかにこたえる責任が、東電にはあるはずだ。
ところが報告書には、首をかしげたくなるような記述が並ぶ。
炉心溶融という用語の使用を控えるべきだとの認識が社内である程度共有されていた結果」
「炉心の状態が直接確認できないため、測定結果が出そろうのに時間が必要だった」
「事故後、マニュアルが改定され、溶融の判定基準は一部の社員の過去の記憶になっていた」
「当時の規制官庁は損傷割合の通報を受けており、溶融が起きていると判断できた」
従って、メルトダウンの判定が遅くなっても不当とは言えず、意図的な隠蔽(いんぺい)も認められない。住民の対応にはほとんど影響していない−などと結論づけている。
首相官邸や政府の関与についても触れてはいるが、曖昧さは否めない。納得できるものではない。
そもそも“第三者”に検証を委ねてしまうこと自体、東電の自らを省みる力、企業倫理の欠如の表れではないのだろうか。
報告書から明らかに読み取れるのは、あれだけの事故を起こしてなお、東電という企業風土の中に「安全文化」が育っていないということだ。
立地する新潟県ならずとも、柏崎刈羽原発の再稼働など、認められるものではない。