9条とあゆむ(下)平和願い 絵筆に力:神奈川 - 東京新聞(2016年5月5日)

http://www.tokyo-np.co.jp/article/kanagawa/list/201605/CK2016050502000151.html
http://megalodon.jp/2016-0505-1017-30/www.tokyo-np.co.jp/article/kanagawa/list/201605/CK2016050502000151.html

平塚市の画家・三代沢史子(みよさわちかこ)さん(74)
個展を開くときは必ず、「史子平和展」と題する。クロアチアの女性との交流がきっかけだった。
一九八九年、取材旅行で旧ユーゴスラビア(現クロアチア)のドブロブニクを訪れた。「アドリア海の真珠」と称される美しい旧市街をスケッチ中に、通りがかった女性に声を掛けられた。「私の家はもっと景色がいい。来ませんか」。リフィカ・クネゼヴィッチさんとの出会いだった。
帰国後、文通を続けた。「助けて」と書かれた封書が届いた。九一年、クロアチアがユーゴからの独立を宣言し、内戦が始まり、ドブロブニクも砲撃にさらされた。二人の子どもを抱えるリフィカさんの身を案じた。
平和を強く願う三代沢さんには「原体験」がある。四五年七月、三歳のときに疎開先の福岡県大牟田市で空襲に遭った。父は出征していて不在。母、一歳にならない弟、十四歳のいとこと一緒に防空壕(ごう)へ逃げ込んだ。
爆音が響き、天井が崩れた。防空壕を出て、向かいの防火用水池に身を沈めた。空襲がやむと、防空壕にいた人たちが道のそこここで息絶えていた。「はっきりと覚えている。今も、飛行機が近づいてくる音を聞くと落ち着かなくて」
個展での売り上げや募金などを、クロアチアへ向かう新聞記者らに救援金として託した。「リフィカさんに届かなくても、誰かのためになれば」。救援金は九一年から十年間で、総額三百万円ほどになった。内戦下では現地通貨より円の価値はずっと大きかった。二〇〇一年、三代沢さんはドブロブニクを再訪し、救援金が乳幼児や孤児らのために役立てられたと知った。
〇五年、リフィカさんの提案を受け、ドブロブニクで「平和展」を開いた。自作の絵を展示し、ひな人形や七夕飾り、茶の湯など日本文化を紹介した。約三百人の市民が集まった。一人の女性が言った。「私の父は戦争で日本兵に殺された。ずっと恨んでいた。でも水に流したい」。ぐっと胸が詰まった。
「理解してもらえたのは日本が二度と戦争をしないと憲法で決め、ずっと守ってきたからだ」と思った。「戦後、日本が積み上げてきたことを大事にしなければいけない。日本も武器を持って海外で戦うということになったら、海外の見方も変わる」
〇三年には「平和を語りつぐ」と冠した催しを平塚市で始めた。「かつて日本も戦争をしたことが忘れられてしまうのではないか」と危惧する知人の新聞投書を読み、すぐに「やろう」と決めた。毎年、戦争体験者の講話や絵画、写真、映画など趣向を変えて、平和の尊さを説き続けている。
今、リフィカさんからは内戦が続くシリアの人々を憂えるメールが届く。平和と自由を願い、絵筆に力を込める。(吉岡潤)

<2冊の絵本> 三代沢さんは戦後50年の1995年、3歳のときの空襲体験を描いた絵本「わすれない あの日」を出版。2012年には、クロアチアドブロブニク守護聖人ヴラホを主人公として、戦渦に巻き込まれたドブロブニクに平和が戻るまでを絵本「聖ヴラホ物語」にまとめた。
また、2011年の東日本大震災発生を受けて、画家仲間で「平和を願う美術家の集まり」を結成。12年から毎年5月、京都市で「反核 反戦 反原発」をテーマにした展覧会を開いている。今年も7〜12日、文化交流センター京都画廊(同市上京区)で約40人の作品を展示する。