オバマ氏の挑戦的外交 アメリカは変わるか - 東京新聞(2016年4月27日)

http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/editorial/CK2016042702000141.html
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外交は政治の一部であり、結果は歴史が判定する。弱腰外交と呼ばれたアメリカのオバマ外交は果たしてどうか。武断を超えた深謀にも見えるのだが。
四月下旬、オバマ大統領は、サウジアラビアの宮殿で深々としたいすに座ってサルマン国王と向き合っていた。二人はかつての両国にない不仲といわれ、国王は空港に大統領を出迎えもしなかった。
大統領の後ろ、控えのいすにはかつてベトナム反戦運動でならしたケリー国務長官、そして外交官というより学者肌ともいわれ、目を射る緋色(ひいろ)のスーツを着込んだライス大統領補佐官。二期目のオバマ外交は大統領とこの二人で組み立てられ、進められている。世界の嫌われ者かもしれない。

◆過去と異なった様相
過去のアメリカ外交と明らかに様相は異なった。
シリアで政府軍の毒ガス使用が疑われた時、もし一線を越えれば武力攻撃を行うと半ば公言していたようでもあったのに、結局は武力に踏み切らない。弱腰論はひときわ大きくなった。しかし政治の世界では空爆支持が多かったとはいえ、民衆の間では武力不介入の声が大きかった。
オバマ外交は、アメリカはもはや世界の警察官ではない、とも言った。国際政治家や学者の中には、そうは言っても世界に突出した米軍事力なくしては世界の安定は保てないという現実認識は今に至ってもある。
確かにロシアや中国の力の行使に対しては、頼りになるのはアメリカの軍事力によるにらみである。ウクライナにせよ、南シナ海にせよ、力の緊張はアメリカの見えざる力によってかろうじて均衡を保っている。アメリカの力はまだまだ世界には必要なのである。

◆軍事よりましな解決
しかし世界は徐々に変化を遂げてもいる。
戦争万能のようだった二十世紀と、戦争に嫌気がさした二十一世紀とは違うようだ。血を流す戦争はマネーを競う経済競争となりあらゆる分野ではじまったグローバル化国民国家の枠組みはゆるがせないにせよ、国民が国家の言いなりだった時代から、国家が国民のいうことをより聞かざるをえない時代に突入している。
アメリカは世界に冠たる軍産複合国家である。兵器を生産するから戦争を起こさずにはいられない、とまでいわれる。
オバマ大統領は、アイクことアイゼンハワー大統領をしばしば引き合いに出すそうだ。
アイクは連合国軍最高司令官としてノルマンディー作戦などを指揮した第二次大戦の英雄。戦後、共和党に大統領候補として引っ張り出され、就任後は朝鮮戦争を休戦させ反共強硬路線を貫いた。ところが一九六一年一月、七十歳の国民向け退任演説でこう述べた。
<第二次大戦までアメリカに軍需産業はなかった。鋤(すき)をつくっていたアメリカ人は求められれば剣もつくった。しかし今やわれわれは巨大で恒常的な軍需産業をもたざるをえなくなった。警戒せねばならない。それがアメリカの自由や民主的政治プロセスを危うくさせるようなことを許してはならない>
不景気で、格差が進んで、しかも軍事費が国の財政を苦しめているという現実に直面して、オバマ氏が半世紀前のアイクの現実的予言を思い起こしたとしても不思議はない。何より、アフガンとイラクからの撤兵を公約として選ばれた大統領である。エリートでなく民衆の選んだ大統領である。
イラン核合意は欧州と中ロを巻き込んでの、いわば世界合意である。イスラエルとサウジは頭に血が上るほど怒った。過去のアメリカとは違ったからだ。そこに新味と挑戦はある。孤立させて緊張を極限化させるよりましな解決はあるはずという態度だ。よりましな未来を期待するという意味ではこれも弱腰かもしれない。キューバ復交は、軍事でなく外交の勝利といってもいい。アメリカの自衛に大切な中南米を流血なしにロシア、中国から取り戻しつつある。

◆深謀遠慮の広島訪問
そして日本に対しては、被爆地・広島の訪問を検討している。一足先にケリー国務長官は各国外相を引き連れ原爆ドームの前に立った。ことを起こす前の深謀遠慮にも見える。
退任前の政治遺産づくり、レガシーづくりといわれる。そうではあろうが、過去の大統領たちのそれとはちがうかもしれない。イランにせよ、キューバにせよ、また広島訪問の可能性にせよ、それらはアメリカ外交の質を根底から変えるようだからである。
この外交の結果はまだ見えない。だから評価はまだ早いのだが世界史への挑戦であることは疑いないだろう。