http://www.tokyo-np.co.jp/article/chiba/list/201602/CK2016020702000159.html
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終戦前の一九四五(昭和二十)年八月に広島・長崎で被爆した会員三十二人でつくる「習志野市原爆被爆者の会」が、被爆七十年と会結成三十周年に合わせた体験集「平和への願いを込めて」をまとめた。投下二日後に広島の爆心地に入った入市被爆者で代表の山口誠雄(まさお)さん(74)は「被爆者も平均八十歳。体験集を出す機会は、今回がおそらく最後。会員の遺言として発刊した」と話す。 (服部利崇)
広島に原爆が投下された八月六日、三歳七カ月の山口さんは、六歳上の兄の疎開先の下見で、母親とお姉さんら三人と偶然にも爆心地から南約二キロの自宅におらず、運良く直撃を免れた。父親は出征していた。
山口さんらは二十キロ以上離れた場所にいて、「広島は大火災で全滅」と伝わる。自宅に残した祖母が心配になり、二日後の八日、家族で自宅に戻った。当時の原爆に絡む記憶はないが、「残留放射能の中、爆心地を通った。遺体や馬の死骸を避け、たどり着いた。自宅は焼けなかったが、爆風で屋根瓦はすべて吹き飛んでいた」という。
祖母は顔や首にやけどを負ったが無事だった。後に「水をください」と、大やけどの人たちが家に入ってきた様子を何度も聞いた。水をあげたら「おいしかった」と去ったという。
生きようと必死で水を求めた人たちの思いが刻まれた自宅で暮らしながら、山口さんは「苦しかっただろうな」とその後、思いを巡らせてきた。
自身に放射線障害は出ていないものの、貧血に悩まされ続けた。一九九四年に習志野市に居を構え、九八年に被爆者の会に入った。昨年、代表に就いた。
会は被爆六十年の二〇〇五年にも体験集をまとめた。その時は「直接体験がなく、遠慮して書かなかった」。しかし代表となり「存命の人も少なくなった」ため、家族からの話や敗戦後の生活苦などをつづった。
体験記を寄せたのは十七人。うち五人はこの十年に亡くなったため、前の体験集から再掲した。初の体験記は山口さんを含む三人。残り九人は前回の体験記に加筆修正した。市の補助金を活用し、昨年十二月に完成させた。
山口さんは「何の罪もない市民が原爆で命を奪われた。むごたらしい被害を記憶にとどめてほしい」と話す。次世代に引き継ごうと市内の小中高校や大学にも配った。A4判、六十四ページ。問い合わせは山口さん=電047(451)1490=へ。