空襲悲劇二度と…平和願う調べ 横浜の高校 吹奏楽部がオリジナル曲 - 東京新聞(2015年12月16日)

http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201512/CK2015121602000238.html
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神奈川県立金沢総合高校横浜市金沢区)の吹奏楽部の生徒と音楽教諭が、地元の住職に教えてもらった空襲の悲劇からイメージを膨らませ、荘厳なオリジナル曲を作った。十九日に川崎市内で開かれるコンサートで演奏する。「戦争の記憶を引き継ぎたい」。戦後七十年の締めくくりに平和への願いを込めて奏でる。 (横井武昭)
放課後の音楽室にいくつもの管楽器の音色が響く。「空襲がこの街にあると知らなかった。身近にあった戦争を伝えたい」。吹奏楽部長の二年、石渡真衣さん(17)は練習の手を休め、思いを語った。
約十分にわたる曲は、序奏で重苦しい戦時中の空気を伝え、ホルンが空襲警報を表現。空襲の場面では全奏者が思い思いに音を鳴らして混乱と激しさを、最後はジャズなども入れて戦後、人々が立ち上がる姿を表す。
指導した音楽教諭の山崎栄一さん(58)は、赴任した各高校で、地域の民話などにちなんだ曲を吹奏楽部の生徒と作ってきた。地元に目を向けてほしいとの思いからだ。戦後七十年の今年は戦争の悲劇を見つめてもらいたいと考えた。
吹奏楽部の約二十人は今秋、同区の慶珊(けいさん)寺を訪問。現在の金沢区などが被害に遭った一九四五年六月の富岡空襲について住職佐伯隆定(さえきりゅうじょう)さん(80)から子どものころの体験を聞いた。
連日の空襲警報に慣れてしまい相撲に興じたこと、豪雨のような爆弾の音…。特に印象に残ったのは、寺の庭に並べられた四十人の遺体と、家族を捜しに来た人たちの話。ある女性は十八歳の娘の変わり果てた姿を見つけて泣き叫んだ。
「体調が悪くて出勤を渋る娘を『日本は戦争をしている。怠けるな』と、無理に出社させたそうです。遺体を抱いて『私のせいだ。ごめんよ』と泣いていました」と佐伯さん。
それを聞いた一年の黒川奈保さん(15)は「切なくて悲しかった」と漏らし、「安全保障関連法が成立し、遠くない将来、戦争が起きるかもしれない。悲劇は繰り返してはいけない」と力を込めた。
佐伯さんの話を踏まえて生徒らは「警報や爆弾の音を曲に入れよう」などとアイデアを出し、ピアノなどでメロディーの一部を考えた。母娘のエピソードは切ない曲調にしようと提案。山崎さんがそれらを取り入れて曲を書いた。
発表の場は、サンピアンかわさき(川崎市川崎区)での「かわさきクリスマスジャズコンサート」で、十九日午後五時から。県立大師高校(同区)の生徒らも演奏に加わる。
佐伯さんは「戦争体験を講演しても、話しっぱなしで終わっていた。こんなことは初めて」と語る。コンサートの問い合わせは京浜楽器MPK店=電044(211)4541=へ。
<富岡空襲> 1945年6月10日朝、米軍の爆撃機B29が、現在の横浜市金沢区の富岡地区や磯子区、中区を爆撃した。136人が死亡し、500人近くが負傷したとされる。日本飛行機の富岡工場など軍需産業の拠点を狙ったとみられるが、工場周辺の民家や京浜急行線のトンネル付近などが被弾し、市民に大きな被害が出た。