沖縄戦終結70年 語り継ぐ、平和の未来へ - 東京新聞(2015年6月24日)

http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/editorial/CK2015062402000123.html
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沖縄で苛烈な地上戦が終結して七十年がたちました。惨禍を繰り返さないためにも、戦争の記憶をしっかりと語り継ぐ。今を生きる私たちの責任です。
日米両軍が沖縄戦の最後に激しい戦火を交わした沖縄本島南部の糸満市摩文仁(まぶに)。その戦跡に広がる平和祈念公園できのう全戦没者追悼式が営まれ、安倍晋三首相、ケネディ駐日米大使らも参列して犠牲者に祈りをささげました。
沖縄戦は日本国内で唯一、住民を巻き込んだ大規模地上戦です。一九四五年六月二十三日、日本軍の組織的戦闘が終わりますが、約六十万県民の四分の一が亡くなったとされる激烈な戦いでした。
◆戦争の痕跡が身近に
沖縄県選出の参院議員である糸数慶子さん(沖縄社会大衆党委員長)は戦後の四七年に生まれ、読谷(よみたん)村で育ちました。戦時中、日本軍の飛行場があり、米軍が沖縄本島で最初に上陸した場所です。
糸数さんは子どものころ、祖母から寝物語に戦争の話を聞かされたそうです。食料が乏しく辛(つら)い思いをしたこと、避難していた壕(ごう)を友軍であるはずの日本軍に追い出されたこと、など。
戦争が終わっていても近くの畑からは遺骨や不発弾が見つかる日常です。戦争は身近に感じる、怖い存在だったといいます。ただ、沖縄戦が家族にもたらした本当の残酷さを知ったのは母親を亡くした後、祖母や親類から聞いた母親自身の体験でした。
身重だった糸数さんの母親は祖母、叔母、二人の姉や兄と本島北部に疎開していました。
激しくなった戦火を逃れてさまよい、四五年六月、避難壕の中で女の子を出産しますが、生後一週間ほどで亡くなり、後を追うように、当時三歳だった兄も栄養失調で亡くなってしまいました。
◆母親の辛い戦場体験
子どもの死を受け入れられない母親。亡くなった兄を遺体の腐乱が進んでも離そうとせず、生きているかのように語りかけていた、といいます。最後は、無理やり引き離して埋葬したそうです。
母親本人はこのことを決して語らなかったといいます。戦後の明るい振る舞いからは想像もできない悲しみを体験していたのです。
沖縄戦犠牲者の無念さは言うまでもありませんが、砲火をくぐり抜け、家族や親類、友人ら親しい人を亡くした辛い体験は生き延びた人の数だけあるはずです。
自らの体験を語り継がなければと、悲しみを胸に証言した人、長い歳月をかけて、ようやく重い口を開いた人、糸数さんの母親のように、辛すぎて、語れなかった人もいるに違いありません。
沖縄では県をはじめ自治体や研究者、メディアによって沖縄戦体験者からの聞き取り調査が続けられてきました。得られた証言は、住民を巻き込んだ戦闘の実相を知る上で、貴重な資料です。
ただ残念なのは、沖縄戦の体験者が時の流れとともに徐々に少なくなり、語り継いできた人も高齢になっていることです。
糸満市の「ひめゆり平和祈念資料館」で続いてきた「ひめゆり学徒隊」自身による団体向けの講話は、語り部の高齢化で今年三月で幕を閉じた、といいます。
時の運命は残酷だからこそ、今を生きる私たちが、戦争体験を後世に伝えなければなりません。
人類は、殺し、殺されという歴史を繰り返してきました。兵器の破壊力が極限まで達した今、本格的な戦争が始まれば人類は破滅の道をたどります。沖縄に限らず、戦争の辛い体験を後世に語り継いでこそ、二度と戦争はしないという「抑止力」になるはずです。それは人類が命をつなぐための英知とも言えます。
沖縄の地元紙、琉球新報などによる県民対象の世論調査では戦争体験を「もっと語り継ぐべきだ」との答えは75%に達し、「現在の程度で語り継げばよい」(19%)を合わせて戦争体験を継承すべきだとの答えは94%に上りました。
県民の九割近くが戦後生まれとなり、薄れゆく戦争体験を語り継ぐ大切さは、より増しています。
◆攻撃対象に、との不安
平和バスガイドとして沖縄戦の惨禍を伝えてきた糸数さんは、再び戦争に巻き込まれるとの不安が沖縄で今、増していると話します。
他国同士の戦争に加わる「集団的自衛権の行使」に道を開く安全保障法制関連法案が審議され、在日米軍基地の約74%が集中する狭隘(きょうあい)な島に、また新たな基地を造ろうとしています。戦争になれば、基地は真っ先に攻撃対象です。
戦争を語り継いできた県民が肌で感じる危機感を、すべての国民が共有できているのでしょうか。
再び戦争の過ちを起こさず、沖縄県民の過重な基地負担を減らすためにもまず、本土に住む私たちが沖縄の戦禍を知り、未来へ語り継ぐことが大切なのです。