慰霊の日 沖縄戦の教訓継承したい - 琉球新報(2019年6月23日)

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沖縄戦の組織的な戦闘が終結してから74年となった。きょう23日、糸満市摩文仁で沖縄全戦没者追悼式が行われ、県内各地の慰霊碑でも祈りがささげられる。
親族の名が刻まれた平和の礎をなぞる高齢者の姿は年々少なくなっているように見える。本紙連載の「未来に伝える沖縄戦」で語る戦争体験者も最近はほとんどが当時子どもだった。体験者が減る中、戦争の悲惨さと、二度と戦争をしてはならないという思いを、確実に次世代へとつないでいかなければならない。
今年の慰霊の日は、安倍晋三首相が悲願とする憲法改正が争点となる参院選が翌月にも控える。自民党憲法9条自衛隊を明記して「早期の憲法改正を目指す」とし、主要争点とする構えだ。安倍内閣閣議決定集団的自衛権の行使を認めたことは違憲と指摘されている。改憲によって正当化したいのだろうか。
軍隊を強くし、個人の尊厳より国益を優先する。現政権の姿勢に戦前の日本のありようが重なる。その帰結は沖縄戦であった。
沖縄戦日本兵よりも県民の死者がはるかに多かった。おびただしい数の住民が地上戦に巻き込まれたからだ。沖縄県史によると、沖縄戦での一般県民の死者は9万4千人、これに県出身の軍人・軍属約2万8千人が加わる。他都道府県出身兵は6万6千人弱だ。
沖縄の防衛に当たる第32軍と大本営沖縄戦を本土決戦準備のための時間稼ぎに使った。県出身の軍人・軍属には、兵力を補うために防衛隊などとして集められた17―45歳の男性住民が含まれる。沖縄戦ではこうして住民を根こそぎ動員した。
さらにスパイ容疑や壕追い立てなど、日本軍によって多数の県民が殺害されたのも沖縄戦の特徴だ。
住民は日本軍による組織的な戦闘が終わった後も、戦場となった島を逃げ回り、戦火の犠牲になった。久米島の人々に投降を呼び掛け、日本兵にスパイと見なされて惨殺された仲村渠明勇さんの事件は敗戦後の8月18日に起きた。
戦後、沖縄は27年も米施政権下に置かれ、日本国憲法も適用されず、基本的人権すら保障されなかった。沖縄が日本に復帰した後も米軍基地は残り、東西冷戦終結という歴史的変革の後も、また米朝会談などにみられる東アジアの平和構築の動きの中でも在沖米軍基地の機能は強化され続けている。
74年前、沖縄に上陸した米軍は以来、居座ったままだ。米軍による事件事故は住民の安全を脅かし、広大な基地は県民の経済活動の阻害要因となっている。沖縄の戦後はまだ終わっていない。
「軍隊は住民を守らない」という沖縄戦の教訓を、無念の死を遂げた沖縄戦の犠牲者への誓いとして、私たちはしっかり継承していかねばならない。

 

<金口木舌>月桃の花咲く頃に - 琉球新報(2019年6月23日)

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「♪月桃白い花のかんざし 村のはずれの石垣に~」。海勢頭豊さんが作詞作曲し、映画「GAMA 月桃の花」の主題歌にもなった曲の一節だ。慰霊の月になると、自然と口ずさむ

▼映画のモデルになった県内最高齢の沖縄戦語り部、安里要江(としえ)さん(98)が先月、体調不良を理由に活動を終えた。「命ある限り語るのが私の使命だった」と約40年、沖縄戦で夫と2人の子どもら親族11人を失った体験を県内外で語り、戦争の悲惨さを訴えた
糸満市真壁では、6月になると「月桃の花」が響く。戦後の混乱期に義務教育を十分に受けられなかった平均年齢約81歳の女性たち「歌声サークルかじまやぁ」の歌声だ。去年から区の慰霊祭で歌を奉納する
▼メンバーには沖縄戦を体験した人もいる。本島南部から石川まで逃げ惑った体験を振り返り、「70年以上たっても、慰霊の日が来ると戦争のことを思い出す」と語る女性も
沖縄戦体験者の言葉は胸に重く突き刺さる。しかし高齢化は進む。体験者の学校講話も減った。教員も戦後世代だけになり、平和教育の在り方を模索する
▼戦争体験者の生の声を聞ける時間は限られている。一言一言を胸に刻み、次代につなぐことが大切だ。22日の真壁区の慰霊祭では、優しい「月桃の花」が戦没者のみ霊を慰めた。今日は「慰霊の日」。深い祈りの中で、改めて平和な世を誓いたい。

 

[きょう慰霊の日]埋もれた声に思い寄せ - 沖縄タイムス(2019年6月23日)

https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/436323
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「十・十空襲」の後、北部への避難を決めた家族に向かって、視覚障がいの女性が「自分を置いて早く逃げて」と言った、その言葉が心に刺さったという。周りに迷惑をかけたくないとの思いが痛いくらい分かったからだ。
「僕だったらどうしただろう」
南風原町に住む上間祥之介さん(23)は、障がいのある当事者として障がい者沖縄戦について調査を続けている。
発刊されたばかりの『沖縄戦を知る事典』(吉川弘文館)では「障がい者」の項を担当。母親が障がいのある子を「毒殺する光景を目の当たりにした」という証言や、自身と同じ肢体不自由者が「戦場に放置されて亡くなった」ことなどを伝える。
国家への献身奉公が強調され、障がい者が「ごくつぶし」とさげすまれた時代。これまでの聞き取りで浮き上がってきたのは、家族や周囲の手助けが生死を大きく分けたという事実である。
「戦争では皆、自分が逃げるのに精いっぱい。真っ先に犠牲になるのは障がい者や子どもやお年寄り」
沖縄戦における障がい者の犠牲は、はっきりしていない。当時の資料も証言も少ない。話すこと、書くことが難しかったという事情はあっただろうが、沈黙を強いているのはその体験の過酷さである。
優生思想は決して過去のものではない。もし今、自分の住む町が戦場になったら…。上間さんは戦争と差別という二重の暴力の中で「語られなかった体験」の意味を考え続けている。

    ■    ■

沖縄盲学校の教師を長く勤め、視覚障がい者教育に尽くした故中村文さんは、戦後、盲学校が再建されるまでの苦労を講演などでよく語った。
中村さんが盲教育に情熱を傾けるようになったのは、戦地で失明した弟の帰郷がきっかけである。
盲唖学校再建の陳情書を作成し、軍政府や民政府に再三足を運ぶが、なかなか取り合ってもらえず、設立の許可が下りたのは1951年のこと。普通学校より6年遅れての再開だった。
戦時中の障がい者の苦労を知っていたからだろう。開校1周年に合わせ中村さんが作詞した校歌には「平和の鐘を聞く時ぞ」のくだりがある。
当時の思いを自著で「集まった生徒、父兄、職員は、鉄の暴風の吹きあれる中を生きのびてきた者たち。平和の鐘を聞くことのできる喜びは例えようもありませんでした」とつづっている。

    ■    ■

おととし43年ぶりに刊行された『県史 沖縄戦』は、これまで取り上げられることの少なかった「障がい者」や「ハンセン病」「戦争孤児」などにまなざしを向けた。
体験を語れなかった、語ろうとしなかった人たち。戦場に放り出され、十分な保護を受けることができなかった人たち。
彼ら、彼女らの戦中・戦後の苦難に触れることによって、私たちは沖縄戦の多様な実相を学ぶことができる。それは今も残る差別の問題を学び直すことでもある。
きょうは「慰霊の日」。

 

<南風>慰霊の日を前に - 琉球新報(2019年6月22日)

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No.62。6年前に解散した沖縄戦記録フィルム1フィート運動の会の私の会員番号です。事務局長をされた故・中村文子先生と一緒に恩納村の「核ミサイルメースB基地」(現在は創価学会沖縄研修道場)に行ったことがあります
橋の橋脚と見まがうほどの分厚いコンクリートの壁で、司令室と思われる部屋には、天井や壁に敷布団分ほどの厚さのアスベストが張ってあり、一部は剥がれて垂れ下がっていました。トンネルのような発射台の中で、中国大陸に狙いを定めて並んだ核ミサイルを想像しました。
74年前、父は広島で被爆しました。爆心地から1キロ余り北にあった自宅が爆風で倒壊して祖母が亡くなったため、仕事先の山口県から広島市に戻って放射能を浴びました。
中学生だった叔父は広島駅近くで大やけどを負い、伯母は叔父を探して焼け野原の町を歩き回ったと話していました。自宅があった場所に戦後再建した家で生まれ育ちましたので、川向かいの原爆スラムと呼ばれたバラックの家並みも記憶に残っています。
平和公園にある原爆慰霊碑には「安らかに眠ってください 過ちは繰り返しませぬから」とあります。広島は、日清戦争では大本営が置かれて大陸進出の拠点となり、「軍都」として栄えました。都市としての歴史を振り返ると「教え子を再び戦場に送ってはいけない」という中村先生の思いと共通するものを感じます。
あすは慰霊の日です。核兵器が廃絶され、戦争のない地球がいつの日か実現することを願って、このコラムを終わります。
記者時代の記憶に半年間お付き合いいただき、ありがとうございました。お世話になった沖縄の方々(鬼籍に入られた方も多くなりました)に、この場を借りてお礼を申し上げます。にふぇーでーびる!
(繁竹治顕、九州国立博物館振興財団専務理事、NHK沖縄元記者)

 

[大弦小弦]時代越え沖縄戦伝えよう - 沖縄タイムス(2019年6月23日)

https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/436310
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沖縄戦の戦火をくぐり抜け、激動の戦後を生きた戦争体験世代も、時がたつにつれ減少し、今や県人口の約1割となっている。体験を聞くという継承のあり方は難しさを増し、沖縄戦を伝えていくことへの危機感が高まる

沖縄戦の非体験世代28人が執筆した「沖縄戦を知る事典」(吉川弘文館)がこのほど発刊された。若い世代が多角的な47のテーマで史実を記録し伝える。継承へ向けた新たな展開だ

▼執筆者らは沖縄戦は広大な米軍基地が存在する現在と地続きと指摘する。編者の一人、吉川由紀さんは同書で「沖縄戦の教訓が今を生きる人々の財産となったとき、それは民主主義を否定する強大な暴力に抗(あらが)う原動力になるはず」と述べる

ひめゆり平和祈念資料館長の普天間朝佳さんも執筆者の一人。若い世代に戦争を「自分ごと」として考えてもらうことが重要と提起する。「要因さえそろえば今でも戦争への道を歩む可能性があり、戦争に自分自身が巻き込まれる可能性があることを想像することにつながる」と指摘する

沖縄戦を知ることは今を知ることに通じる。それはすべての世代の、今を生きるわれわれの責任でもあるはずだ

▼きょうは慰霊の日。鎮魂の祈りをささげるとともに、多くの犠牲の上に得た教訓を決して手放すことなく、継承への努力を忘れずにいたい。(内間健)

 沖縄戦を知る事典 - 株式会社 吉川弘文館 安政4年(1857)創業、歴史学中心の人文書出版社 

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<ぬちかじり 沖縄を伝える>(下)地元の目 何を映す 余命1年 無理解にあらがう - 東京新聞(2019年6月23日)

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週のはじめに考える アイシアッテルカイ? - 東京新聞(2019年6月23日)

https://www.tokyo-np.co.jp/article/column/editorial/CK2019062302000172.html
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ロックスター忌野清志郎。この世を去って、はや十年。でも今も、今だからこそ、あのフレーズが聞こえてきそう。みんな、アイシアッテルカーイ-。
♪何 言ってんだー/ふざけんじゃねぇー/核などいらねえ…。
おなかの底から“絞りたて”とでも言うような少ししゃがれたあの声が、真っすぐこちらへ向かってきます。
伝説のロックバンド、RCサクセションが歌う「ラヴ・ミー・テンダー」。エルビス・プレスリーの代表曲に、ボーカルの清志郎さんが、日本語の“訳詞”をつけました。

原子力は欲しくない
ボブ・ディランローリング・ストーンズジョン・レノン…。洋楽のスタンダードナンバーを訳詞(といっても、ほとんど替え歌ですが)で歌う「COVERS(カバーズ)」というアルバムの中の一曲です。
例えば、忌野版の「サマータイム・ブルース」(原曲はエディ・コクラン)は、チェルノブイリ原発事故に触発されたという、あまりにもストレートな反原発ソングです。

♪電力は余ってる/要らねえ/欲しくない/原子力は要らねえ/危ねえ/欲しくない…。

こんな感じのリフレイン(繰り返し)が印象的で、発表当時は「過激」とされたこの歌も、福島の事故に向き合う今となっては、予言のようにも聞こえます。
「カバーズ」は一九八八年八月六日の広島原爆の日に発売されるはずでした。それが突然、中止になりました。レコード会社に原発の建設を手掛ける親会社への“忖度(そんたく)”があったといわれています。
「素晴(すばら)しすぎて発売出来ません」-。六月二十二日付の全国紙に載ったレコード会社の「御知らせ」のこの見出し、今でもはっきり覚えています。
皮肉なことに、それでかえって「聞きたい」という渇望の声が強くなり、十五日の終戦記念日に別のレコード会社から、世に出ることになりました。
それから十一年ののち、忌野清志郎名義のミニアルバム「冬の十字架」が、またもや、発売中止の憂き目に遭いました。
パンクロック風にアレンジされた「君が代」が収録されていたというのが、その理由。
だれがダメだと言ったのか。
またしても正体不明の“忖度”でした。

◆ウソのない言葉の力
放送も“自粛”される中、忌野版の「君が代」を、清志郎さんいわく「宇宙で初めて」電波にのせたのが、清志郎さんの友人で、タレントの矢野きよ実さん。「矢野印(じるし)」という、中部日本放送の夜のラジオ番組でした。
矢野さんは今、こう言います。
「ボス(清志郎さん)は、多くを語りません。でも、ある瞬間のひと言が、私たちの生きる力になるんです。ウソのない、壁のない、全部さらけ出しちゃう人だから-。この時代、この時期に、ボスがいてくれたなら…。そう思わずには、いられません」
ウソのない彼の言葉は、どこから生まれてくるのでしょうか。
ギタリスト、楽曲の共同制作者などとして最後まで清志郎さんに寄り添った、三宅伸治さんに聞いてみました。
清志郎さんって“文化人”ではないんです。感じたことを庶民目線で普通に歌っただけなんです。“ロックの基本は、ラブ・アンド・ピース(愛と平和)なんだ”と、よく言っていましたが、原発を歌うにしろ、憲法を語るにしろ、そこへつながっていく話。愛と平和を大切にしていただけなんです」
そういえば清志郎さん、「瀕死(ひんし)の双六(すごろく)問屋・完全版」という著書に、こんなことを書いています。
<どーだろう、…この国の憲法第9条はまるでジョン・レノンの考え方みたいじゃないか? 戦争を放棄して世界の平和のためにがんばるって言ってるんだぜ。俺たちはジョン・レノンみたいじゃないか。戦争はやめよう、平和に生きよう…>

◆自分自身のことだから
憲法改正原発事故も戦争も、ほかならぬ自分自身の問題だから、あの人は、歌わずには、語らずにはいられなかった-。
翻って、私たちはどうですか。
歌いたい歌を歌ってますか。理不尽なものに怒ってますか。忖度ばかりしていませんか。おかしなことをおかしいと言えますか。憲法を読んだことがありますか。投票には行きますか。日本は世界有数の地震国、福島の事故が怖くはないですか。「愛と平和」が好きですか…。
“何 言ってんだー”“何 やってんだー”と、あの人に言われなくても済みそうですか。

 

 

女性の生きづらさ 国境越え共感 韓国小説、異例ヒット - 東京新聞(2019年6月23日)

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82年生まれ、キム・ジヨン (単行本)

82年生まれ、キム・ジヨン (単行本)

 

 

 

【書評】つみびと 山田詠美著 - 東京新聞(2019年6月23日)

https://megalodon.jp/2019-0623-0929-13/https://www.tokyo-np.co.jp:443/article/book/shohyo/list/CK2019062302000204.html

 

つみびと (単行本)

つみびと (単行本)

 

 

 

【書評】ナショナリズムと相克のユーラシア 宮田律(おさむ)著 - 東京新聞(2019年6月23日)

https://megalodon.jp/2019-0623-0927-58/https://www.tokyo-np.co.jp:443/article/book/shohyo/list/CK2019062302000202.html

 

ナショナリズムと相克のユーラシア:ヨーロッパ帝国主義の負の遺産
 

 

 

日本語教育推進法が成立 実効性のある施策が大事 - 毎日新聞(2019年6月23日)

https://mainichi.jp/articles/20190623/ddm/005/070/029000c
http://archive.today/2019.06.23-001726/https://mainichi.jp/articles/20190623/ddm/005/070/029000c

日本に住む外国人の日本語習得を支援する「日本語教育推進法」が超党派議員立法で成立した。
日本語教育に関する施策に取り組むことを国や自治体の責務と定め、外国人労働者を雇う事業主にも、労働者と家族が日本語を学ぶ機会を得られるよう支援を求めた。
労働力不足を背景に増える外国人が日本で不自由なく生活するには、言葉の壁をなくすことが第一歩だ。法律の方向性は間違っていない。
法律は、必要な財政措置を政府に求めており、国や自治体が施策を実施しやすくもなるだろう。
ただし、法律が定めているのは、ほとんどが基本理念だ。これをどう具体的な施策として実現するかが今後の国や自治体の課題となる。
日本語教育が必要なのはまず、日本に今住んでいる外国人の子どもだ。日系人や特定の在留資格を持つ親から扶養されている子どもらが含まれる。
かつては製造業が盛んな地域に定住資格を持つ日系人らが工場労働者として集まり、そうした地域には日本語教室もできた。
だが、近年は日本語教室のない農村部などにも外国人が住むようになり、地域格差が生まれている。
文部科学省の2016年度調査では、国内の小中高と特別支援学校に通い、学校に「日本語教育が必要」とされた子どもは4万3947人に上る。10年間で1・7倍に増えた。
そのうち、誰からも指導を受けられていない「無支援状態」の子どもは全体の24%に上った。
今後はさらに、日本語教育が必要な子どもが増える可能性がある。今春施行された改正入管法には、外国人労働者の受け入れ拡大により、家族を連れてきて働ける「特定技能2号」が盛り込まれたからだ。
現状では、日本語を教える人材は量、質とも不安定だ。全国の日本語教師約4万人のうち、ボランティアが約6割を占めている。各地域で日本語教師を養成することは急務だ。
法律は日本語教師の資格制度の整備も求めている。教師の身分を保障することも大切になる。
日本語教師の量、質を確保するとともに、誰もが日本語教育を受けたい時に受けられるネットワークづくりを地域で進めなければならない。

 

増える高齢者の独居 葬送も共助の時代に入る - 毎日新聞(2019年6月23日)

https://mainichi.jp/articles/20190623/ddm/005/070/028000c
http://archive.today/2019.06.23-001954/https://mainichi.jp/articles/20190623/ddm/005/070/028000c

ひとりで自分の死を迎える人がこれからますます多くなる。2040年には高齢者の女性の4人に1人、男性は5人に1人がひとり暮らしになると予測されている。
葬儀やお墓をどうするのか。本人ばかりでなく、共助の観点から行政の対応も問われる。
日本では団塊の世代以降、晩婚化・未婚化が進んだ。50歳までに一度も結婚していない人の割合を示す「50歳時未婚率」は1975年に男性が2・1%、女性が4・3%だったが、15年には男性23・4%、女性14・1%にまで上昇した。
これから高齢者の仲間入りをする人の中で、未婚者は増えていく。家族形態の変容は、後を継ぐ人がいることを前提とした墓のあり方を変えていくだろう。
先祖代々の個別の墓ではなく、多くの人の遺骨と同じ場所に埋葬する「合葬墓(がっそうぼ)」が各地で増えている。さいたま市が15年にまとめた市民へのアンケート調査によると、合葬墓について8割近くが設置に肯定的な回答をした。
独居高齢者をめぐっては、亡くなった後、親族がいても葬儀が営まれなかったり、遺骨の引き取りを拒否されたりすることも少なくない。「無縁遺骨」と呼ばれ、とりわけ生活保護の受給者に多い。
生活保護の受給者が亡くなると、自治体が生活保護法に基づく「葬祭扶助」で対応することが増えている。その際、自治体は火葬までの費用は負担するが、宗教的な弔いをしてもらったり、祭壇に花を供えたりする費用までは出せない。
引き取り手のいない遺骨はその後、自治体が所有する納骨堂などで保管される。こうしたケースが増え、保管場所に困る自治体もある。
神奈川県横須賀市はこの状況を変えようと15年に「エンディングプラン・サポート事業」を始めた。ひとり暮らしで身寄りがなく、生活にゆとりがない人を対象に、本人の意思に基づき、低額の葬儀や納骨の手続きを決めておく仕組みだ。
独居高齢者の不安解消にもつながる。NPOの活動を合わせて、同様の取り組みが広がるのが望ましい。
葬送はこれまで家族が担ってきたが、それが難しい時代になった。地域社会での支え合いが必要だ。

 

児童虐待防止 対策を生かせる体制に - 朝日新聞(2019年6月23日)

https://www.asahi.com/articles/DA3S14066833.html
http://archive.today/2019.06.22-210826/https://www.asahi.com/articles/DA3S14066833.html

虐待防止強化のための改正児童福祉法などが成立した。親による子への体罰禁止を明記したほか、最前線で対応に当たる児童相談所の機能強化をめざす。
これまでも痛ましい事件が起きる度に、制度改正や運用の見直しがなされた。だが、それを実行する現場の体制が伴わず、悲劇が繰り返されてきた。政府は今後、財政面からもしっかり支え、対策の実効性を高めなければならない。
法案審議のさなかにも、札幌市で2歳の女児が衰弱死する事件が起きた。児相は、会えないこと自体をリスクととらえ、通報を受けて48時間以内に子どもの安全を確認する「48時間ルール」に、従わなかった。
子どもを守るための最低限のルールが徹底されない背景に、何があるのか。増え続ける虐待の通報に人手が追いつかず、現場が疲弊しているのではないか。国会審議でも、大きな論点となった。
政府は昨年末、児童福祉司を今の3千人から22年度に5千人体制にする緊急対策をまとめたが、実行できるのか。実現したとしても、虐待通報の増加ペースに間に合うのか。与野党の修正協議で、虐待の相談対応が過重とならないよう必要な見直しをする規定が盛り込まれた。政府は実態を踏まえ、今の計画で十分か、常に検証すべきだ。
増員と同時に、虐待対応にあたる人たちの専門性向上も大きな課題だ。児童福祉司の45%は3年未満の勤務経験しかない。指導役の確保・育成が急務だ。
札幌のケースでは、児相と警察の連携の悪さも問題点として指摘された。児相はもとより関係機関の担当者の、虐待に関する知識やリスク判断力を高める取り組みも欠かせない。
親に対する指導や援助にもあたる児相が、親との関係悪化を恐れて子どもの一時保護などをためらうことがないよう、改正法では、「介入」と「支援」の担当職員や部署を分けることを求める。
きめ細かい対応ができるように、人口などをもとに児相設置の基準も新たに設ける。ただ、あくまで目安であり、どこまで増えるかは自治体次第だ。3年前の法改正でも、中核市特別区の児相設置促進がうたわれたが、この間、設置したのは兵庫県明石市のみ。設置が進まない原因を分析し、手立てを講じることも政府の責任だ。
東京都目黒区や千葉県野田市の事件では、子どもの発したSOSが大人に届かないという課題も浮き彫りになった。改正法の施行後2年をめどに検討することとされたが、子どもの意見表明権を保障する仕組み作りも、急がねばならない。