<南風>慰霊の日を前に - 琉球新報(2019年6月22日)

https://ryukyushimpo.jp/hae/entry-941099.html
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No.62。6年前に解散した沖縄戦記録フィルム1フィート運動の会の私の会員番号です。事務局長をされた故・中村文子先生と一緒に恩納村の「核ミサイルメースB基地」(現在は創価学会沖縄研修道場)に行ったことがあります
橋の橋脚と見まがうほどの分厚いコンクリートの壁で、司令室と思われる部屋には、天井や壁に敷布団分ほどの厚さのアスベストが張ってあり、一部は剥がれて垂れ下がっていました。トンネルのような発射台の中で、中国大陸に狙いを定めて並んだ核ミサイルを想像しました。
74年前、父は広島で被爆しました。爆心地から1キロ余り北にあった自宅が爆風で倒壊して祖母が亡くなったため、仕事先の山口県から広島市に戻って放射能を浴びました。
中学生だった叔父は広島駅近くで大やけどを負い、伯母は叔父を探して焼け野原の町を歩き回ったと話していました。自宅があった場所に戦後再建した家で生まれ育ちましたので、川向かいの原爆スラムと呼ばれたバラックの家並みも記憶に残っています。
平和公園にある原爆慰霊碑には「安らかに眠ってください 過ちは繰り返しませぬから」とあります。広島は、日清戦争では大本営が置かれて大陸進出の拠点となり、「軍都」として栄えました。都市としての歴史を振り返ると「教え子を再び戦場に送ってはいけない」という中村先生の思いと共通するものを感じます。
あすは慰霊の日です。核兵器が廃絶され、戦争のない地球がいつの日か実現することを願って、このコラムを終わります。
記者時代の記憶に半年間お付き合いいただき、ありがとうございました。お世話になった沖縄の方々(鬼籍に入られた方も多くなりました)に、この場を借りてお礼を申し上げます。にふぇーでーびる!
(繁竹治顕、九州国立博物館振興財団専務理事、NHK沖縄元記者)