週のはじめに考える 「知らん顔」の果てに - 東京新聞(2021年5月9日)

https://www.tokyo-np.co.jp/article/103068

「法が終わるところ、暴政が始まる」−。十七世紀に活躍した英国の哲学者ジョン・ロックの言葉です。名著「統治二論」の中に出てきます。
では暴政とは何でしょうか。ロックは実にわかりやすく同書で説明しています。
<暴政とは、人が、その手中に握る権力を、その権力の下にある人々の善のためではなく、自分自身の私的で単独の利益のために利用することである>(岩波文庫
権力を自分の利益に使う−。何やら近年の政治状況を見事に映し出す鏡のような言葉ではありませんか。ならば近年の政治は暴政であったに違いありません。

◆法的クーデターだった
集団的自衛権の行使は憲法違反」。戦後一貫した政府見解でした。それをひっくり返した、二〇一四年の安倍晋三内閣による閣議決定は、さしずめ「法が終わるところ」にあたるでしょうか。違憲なのに「合憲」と勝手に内閣が解釈したのですから…。「解釈改憲だ」とも批判されました。
集団的自衛権とは何か。まず個別的自衛権とは日本が攻撃されたとき使われます。従来の政府見解は、この場合のみ自衛権による実力行使を認めてきました。自衛隊が国民や国土を防衛します。
いわゆる「専守防衛」です。
それに対し、日本が攻撃されてもいないのに、他国どうしの武力紛争に自衛隊が介入するのが集団的自衛権の行使です。憲法九条が許しているはずがありません。
それゆえ高名な憲法学者が「閣議決定は法学的なクーデターだ」と評したほど破壊的な出来事でした。全国の憲法学者らがこぞって安倍内閣のやり方を「暴挙だ」と声を上げました。
その集団的自衛権行使を認めて作られたのが、いわゆる安全保障関連法です。

憲法の番人が「違憲
これは違憲の法律ではないか、この法律で平和に生きる権利が侵された−。そう国民が思うのも無理からぬところです。そして、訴訟になりました。
これまで全国二十二の地裁・支部で裁判が起こされました。既に十の地裁、大阪高裁など二高裁で判決がありました。結果はすべて「原告敗訴」です。理由はほぼ安保法制によって具体的な危険が生まれたとは認められないというもので、安保法制が違憲かどうかの判断は示していません。
司法が肝心の憲法判断をスルーしてしまっているわけです。非常に残念な状態です。でも裁判の過程では重大な証言がいくつもあります。例えば宮崎礼壹(れいいち)・元内閣法制局長官の証言です。
「(安保法制の)集団的自衛権の容認部分は、憲法九条との関係で両立しないものであって、それは一見明白に違憲という域に達していると考えております」
法制局長官はいわば「憲法の番人」ですから、その経験者の「一見明白に違憲」との証言は重みがあります。(1)憲法九条の規定に反する(2)長年の政府解釈や国会での議論に反する(3)政府の新たな存立危機事態などの概念は極めてあいまいで混乱を招き、憲法の求めるものに反する−宮崎氏の証言は、この三段論法になっていました。
一五年当時の法制局長官が国会で「従来の政府解釈はフルスペックの集団的自衛権の合憲性のみを問題にしていた」と述べたことにも「あほらしい」と一笑に付しました。過去の国会答弁でも、ごく限定して集団的自衛権を認められないかと質問者はわざわざ聞いていたのですから…。
どんな角度からも反論可能で、結論は「違憲」です。かつ国民の代表である国会が決めたことは合憲性の推定が働くといわれていることにも宮崎氏は反論しました。
「一見して明白に違憲ならば、国会が議決した法律でも憲法に違反するという法理は、一般に承認されています」
訴訟の本質は安保法制への憲法判断を迫ったものなのに、裁判所が直視せず毎回、判断を回避してしまうとは。この消極主義はいったいどうしたことでしょう。
一月に亡くなった作家の半藤一利さんは、この裁判で意見書を書いた一人です。裁判官に向けた一節にこうあります。
<戦前の国家ナショナリズムを擁護する歴史修正主義的な言葉、言論が広まり(中略)ますます憂うべき状況です>

◆大きな視野で歴史を
そして大きな視野で歴史と将来を見て考えよと。こんなくだりもありました。
<戦争は、ある日突然に天から降ってくるものではなく、長い長いわれわれの「知らん顔」の道程の果てに起こるものなのです>
いまいちど、「法が終わるところ」のロックの言葉をかみしめてはいかがか。憲法判断に「知らん顔」をしている裁判官たちよ。