植松被告に死刑 「なぜ犯行」今なお残る - 東京新聞(2020年3月17日)

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知的障害者施設「津久井やまゆり園」で四十五人を殺傷した植松聖被告に死刑判決が出た。「大麻乱用で心神喪失だった」との弁護側の主張は退けられた。それでも「なぜ」の問いが今なお残る。
裁判での争点は、植松被告に犯行当時、刑事責任能力はあったかどうか。その程度はどうであったかに絞られていた。
犯行時までの一年間に週に四、五回も大麻を使用していたからである。多いときは一日で数回、大麻を吸っており、その乱用による大麻精神病とも疑われた。
大麻の乱用で「人が変わった状態になった」「長期間、常用したことで病的で異常な思考に陥った」(弁護側)のか、「大麻の影響はあっても小さい」(検察側)のか。心神喪失が認められるかが有罪無罪の決め手だった。
横浜地裁の判決ではまず被告が「重度障害者は不幸を生む不要な存在で安楽死させるべきだ」と考え、「その先駆者になる」ことが犯行動機だったとした。その上で、入所者十九人を刃物で殺害する大事件が計画性をもって行われたことを重視した。
例えば職員の少ない時間帯を狙い、職員を結束バンドで拘束。「重度障害者を選別して殺害行為に及んだ」ことなどだ。刑事責任能力を認め、死刑判断をした。
計十六日間の審理でも「意思疎通のできない障害者は不幸を生む」などと説明し、差別そのものの主張を繰り返した。「重度障害者を育てるのは間違い」「事件は社会に役立つ」「人権で守られるべきではない」と-。
その意思は強固と思えるほどだった。ゆがんだ差別意識はどうして生まれたのか。だが裁判では深掘りされなかった。
教育者の家庭に生まれ、自らも教師になろうとした。大学では教育実習を受けたものの、危険ドラッグに手を出すなど素行は乱れた。卒業後は運送会社を経て、「やまゆり園」の職員となった。
決して強者でもないのに弱者の中から「不要な命」を選別し、大量殺人を犯す。あまりに飛躍・逸脱した犯行をどう説明したらいいのか。
今も社会にはびこる差別や偏見とどう関係するのか。障害者も人間であり、その権利を尊重するのは、社会の共通した価値観ではなかったか。
あるいは格差が進む日本社会では「人間は平等」「人権」という価値観も揺らぐのか。事件はいまだ不可解である。