<南風>遺族にとっての戦後は - 琉球新報(2018年12月28日)

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故郷・富山の実家には祖父の遺影が飾られていますが、私自身は会ったことがありません。幼い頃から聞かされていたのは、3歳の母を残して出征し、シベリア抑留で亡くなったという話だけ。帰国が決まっていたのに直前に食べ物にあたり、船に乗れなかったとも言われていました。ソ連崩壊後の情報公開で死亡こそ確認されたものの、詳しい状況は謎のままでした。
10年前、思いもかけずそのロシアに赴任することになり、軍事関連の公文書館を取材する機会がありました。祖父の抑留記録が残っていないかダメ元で尋ねてみると、文書が出てきて驚きました。家族全員の名前や実家の田畑の面積、毎日の治療内容まで16ページに及ぶ詳細な記述。死因は食あたりなどではなく、ダニが媒介する脳炎でした。回復したら再び強制労働に駆り出すつもりだったにせよ、一人一人にこれだけの記録を残せるとはある意味大国だとも感じました。祖父との距離がぐっと縮まった瞬間でした。
ところがおととし、驚くべき事態が起きます。厚生労働省によるシベリアでの遺骨収集の作業中、集めた遺骨の一部が誤ってたき火にくべられて焼失する事故が発生。祖父の遺骨が含まれていた可能性もあるとして担当者が実家を謝罪に訪れました。父は焼失を免れた遺骨のDNA鑑定に一縷(る)の望みをかけ、寝たきりだった母の検体を提出したそうです。
それから丸2年がたちますが、厚労省に何度問い合わせても「まだ鑑定中」の一点張り。沖縄戦の遺骨と同様、鑑定の実施機関が限られているのは分かりますが、せめて経過だけでも向こうから知らせてきてほしいというのは無理な注文でしょうか。母は鑑定結果を知ることなく、去年他界しました。あの敗戦から73年。遺族にとって戦後が終わることはありません。(傍田賢治、NHK沖縄放送局局長)