写真集「水俣」「最後の勝負だった」ユージン・スミス氏没後40年 共著者アイリーンさん語る - 西日本新聞(2018年12月3日)

https://www.nishinippon.co.jp/nnp/national/article/470189/
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1970年代に水俣病を世界に伝えた米国人写真家、ユージン・スミス氏(1918〜78)が死去して40年。12月には生誕100年を迎え、生涯を描く映画「ミナマタ」(原題)の撮影もジョニー・デップさん主演で年明けから始まる。スミス氏の遺作となった写真集「水俣」について、共著者で、ともに熊本県水俣市の患者多発地区で暮らした元妻のアイリーン・美緒子・スミスさん(68)=京都市=は「彼にとって最後の勝負だった」と振り返った。
71年9月、寝台特急「なは」で水俣駅に降り立った夫妻は、10日前に婚姻したばかり。スミス氏52歳、アイリーンさん21歳。前年の秋、東京の出版社経営者に水俣病の話を聞き、1年かけて準備を進めていた。
「彼の最後の仕事だというのは、暗黙の了解で分かっていた。今までの蓄積を絞り出すんだという意気込みがあった」。太平洋戦争中、従軍カメラマンとして受けた砲弾による傷などの痛みに耐えるため、アルコールが欠かせなかったスミス氏。アイリーンさんによれば、「もう体が持たない」と悟っていたという。
「患者が多くいる地域に住みたい」という夫妻の希望通りに住まいもすぐに借りられた。写真家の故塩田武史さんの案内で、69年提訴の第1次訴訟原告の家庭を回り、親交を深めていく。風呂場で胎児性患者の娘を優しく抱く母親を捉えた作品も、水俣に来て3カ月目には撮り終えていた。
ずっと順調だったわけではない。翌72年1月、新たに患者認定された自主交渉グループのリーダー故川本輝夫さんが、チッソ東京本社での従業員の妨害に抗議するため向かった千葉県の工場で、同行した夫妻も暴行事件に巻き込まれた。
スミス氏の後遺症はひどく、複数の医療機関に通い続けたが、容疑者は不起訴処分に。「実際に当事者になって、チッソや権力側の振る舞いを直接体験できた」とアイリーンさん。事件を経験し、不正義に対する視点がさらに定まった。
その後も水俣や東京を行き来しながら、進行中の裁判や自主交渉の行方、治らない病を背負った胎児性患者たちにレンズを向け続けた。
暴行事件でさらなる重荷を背負った2人を後押ししてくれたのは、出会った患者たちだった。74年10月、夫妻は3年間暮らした水俣を去った。写真集に掲載する写真の選定や文章もほぼ出来上がっていたという。
75年1月7日、スミス氏は「私は写真を信じている。もし充分に熟成されていれば、写真はときには物を言う。それが私−そしてアイリーン−が水俣で写真をとる理由である」と、最後の作業だった写真集の文章を書き上げた。暴行事件から3年、民事訴訟の時効となる日だった。
ジョニー・デップさんがスミス氏を演じる映画は、来春からセルビアを中心に日本でも撮影される予定という。アイリーンさんは「裁判が続いている現在の水俣病にも光が当たれば良いし、『被写体と読者に対して限りなく正直で公正であることがジャーナリストの責任だ』と繰り返した彼の精神が世界中に伝わればうれしい」と話した。