「死んだ兵の食事奪い合い、自分の生に執着」 真珠湾攻撃から77年、戦地の記憶今も - 神戸新聞NEXT(2018年12月8日)

https://www.kobe-np.co.jp/news/sougou/201812/0011886043.shtml
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ごう音とともに動かなくなった先輩、やせこけて死んでいく同僚−。元海軍衛生兵の井上耕作さん(96)=兵庫県姫路市=は今も寝床に入ると、戦地の記憶がよみがえる。西太平洋のトラック島で直面した空襲と飢餓。「自分の生だけに執着し、他人の死には無関心になった」と振り返り、「あんな状況が二度とあってはならない」と強く願う。あの戦争の戦端を開いた旧日本軍による米ハワイ・真珠湾攻撃から8日で77年となる。(小川 晶)
神崎郡出身の井上さんは高等小学校を卒業後、百貨店勤務などを経て1942(昭和17)年に志願して海軍に入った。前年の12月8日に太平洋戦争が始まり、父親から「どうせ兵隊になるなら早いうちに」と勧められたという。
広島の呉海軍病院などで看護の経験を積み、43年末ごろにトラック島の病院に配属された。飛行場が整備され、連合艦隊も寄港する海軍の一大拠点。透き通った海をサンゴ礁が埋め、大小さまざまな島が浮かぶ美しい光景が広がっていた。
44年2月、米軍の航空部隊が同島を急襲。井上さんは防空壕(ごう)に逃げ込み毛布にくるまったが、大きな衝撃を感じた。壕が崩れ、隣にいた先輩の腹部を焼夷(しょうい)弾が貫通していた。死傷者が続出し、病院の廊下は真っ赤に。爆弾投下と機銃掃射の合間をぬい、担架を持って走り回った。
島への米軍の上陸はなかったが、船舶や飛行場などが壊滅的な被害を受け、機能を失った。補給路も途絶え、孤立した日本軍は自給自足で飢えをしのいだ。一日の食事は、細いイモとまぶすように添えられたご飯だけ。栄養失調で動けなくなった兵士は、板張りの部屋の薄い毛布の上に並べられた。
じきに便や尿を垂れ流すようになり、尻にうじがわいて、朝になると亡くなっている。その分の朝食を、動ける兵士がわれ先にと奪い合う。
井上さんも空襲で先輩が亡くなった時にはこぼれた涙が、全く出なくなった。当時の心境を「自分のことばかり考えて、他人なんか放っとけという感じだった」と振り返る。
同島の日本軍は孤立したまま、45年8月15日を迎えた。敗戦の玉音放送を聞いた井上さんは、生き延びた喜びから「やったあ」と叫んだ。真珠湾攻撃の一報を内地のラジオで聞いた時に口から出た言葉も「やったあ」だったと思い出した。
復員後、生還した同僚らと文通を続けたが、みな亡くなった。戦地での経験を語れる人が日ごとに少なくなる中、井上さんは「人の死は、家族にみとられ、惜しまれて迎えるもの。誰にも気に掛けられず、一人きりで息絶える戦場での死者を、二度と出してはならない」と力を込めた。