<にっぽんルポ>東京・歌舞伎町 少女のSOS届け - 東京新聞(2018年11月17日)

http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201811/CK2018111702000273.html
https://megalodon.jp/2018-1118-1030-28/www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201811/CK2018111702000273.html

「住所がほしいです」
無料通信アプリLINE(ライン)の画面に悲痛なメッセージが浮かび上がった。送り主は、数カ月前からシャワー付きのネットカフェで暮らす女性(29)。新宿駅近くの店内から現れた格好は、上下グレーの部屋着に、スーツケースと、ぱんぱんのリュック。持ち物全てを両手に握って。
「体、休めた?」。NPO法人「BOND(ボンド)プロジェクト」代表の橘ジュンさん(47)が声をかける。BONDが受け付けているLINE相談にSOSが届くと、会いに行く。「ずっと一緒に過ごすというより、彼女たちが困っているとき、そこで立ち止まって、一緒に考えさせてもらえたらと思って」
相談に来た女性は北海道出身で、幼いころに両親が別居。一緒に住む母には頭からみそ汁をかけられ、真冬にはだしで家を閉め出される虐待を受けてきた。大学進学とともに暮らし始めた大阪でプログラミング会社に就職したが、過労で入院すると実家に連れ戻された。束縛に耐えられず、一年前に飛び出した。
流れるようにたどり着いたのが新宿。今は派遣型風俗店で食いつなぐ。「小さいころから夢なんか持ったことない。できればさっさと死にたい」。そう語る女性を、橘さんは保護を受けるため区の福祉事務所に連れていった。
いじめ、貧困、性被害…。困難を抱えた女性の自立支援をするNPOの設立前から、ルポライターとして三十年近く、街を漂流する少女らの声に耳を傾けてきた。いつも隣にいるカメラマンの夫、KENさん(50)は「歌舞伎町は懐が深く、受け止めてくれる。だから人が生きられる」と言う。
「接着剤」の意味を込めたBONDプロジェクト。「君のことを知りたい」。若者の生きづらさに向き合う二人にとって、この街は原点でもある。

◆安心できる場所に
きらびやかなネオンで華やぐ歌舞伎町の雑踏から、二十代後半のアイさん(仮名)が「ジュンさぁん」と長い髪を揺らして近づいてきた。薄暗い路地を一緒に歩きながら、橘ジュンさんは彼女との物語を思い起こす。「ここで会ったね。あなたを当てもなく捜し回ったよ」
取材で街を歩いていた十年以上前、渋谷センター街を一人でうろつくアイさんを初めて見つけた。「おなかすいたから、ご飯食べさせてもらって、部屋にいさせてもらう」。出会い系サイトで知り合った男性と会う約束をしていた。
「人生をリセットするために、三日前に盛岡から出てきた」という。高校を中退し、風俗で働きながら、ナンパされた男性と結婚。十六歳で出産したが、夫の親に引き離され、東京で一人出直そうとしていた。アイさんには、身を乗り出すように聞いてくる橘さんが「気持ちを分かっている人だな」と映った。
しばらく連絡が途絶え、偶然再会したのが歌舞伎町だった。アイさんはホストを連れ「夜働いて、いろんな人のところにいます」と相変わらずの日々。それからまた連絡するようになり、「相談がある」と珍しく家に来たことがあった。
「妊娠したの」。今度は相手が分からず、病院にも行かない彼女を前に橘さんは焦った。福祉事務所に行く約束をしても、その日になると来ない。深夜まで働き、朝方に寝るアイさんに行政への相談はハードルが高かった。結局、救急車で駆け込み出産だった。
出産から三日後。わが子を病院に置いたまま、アイさんは歌舞伎町に戻ってしまった。「お金が必要だから」。子育て不適格と見なされ、子どもは乳児院に預けられていった。「話を聞いて伝えるだけじゃなくて、一緒に考えて、安心して過ごせる場所が必要なんだ」。橘さんは痛感した。
アイさんは今も、歌舞伎町で生きる。過去を消したくて捨ててきた故郷。でも、橘さんから「お母さんに会いに行こうよ」と言われ、いつかは帰りたいと思っている。「私、遠慮する方だけど、ジュンさんには思ったことを言える。熱い人だから」

◆華やかさと危うさ
歌舞伎町に来ると、橘さんはつらい思い出が蘇(よみがえ)る。アイさんにしてあげられなかったから、困っている子がいたら背中を押してあげたい。「自分に何ができる?」。そう問いながら、関わり続ける。
戦後の焼け野原を区画整理した歌舞伎町は日本一の歓楽街と言われる一方、犯罪の温床にもなってきた。華やかさと危うさを併せ持つ街に、少女らはなぜ集まってくるのだろう。
橘さんは十代のころ、レディース(女性の暴走族)に所属していた。雑誌で自分のチームを紹介してもらう取材を受けてから、王道からそれたアウトローの生き方をする人に興味を持ち、十九歳でルポライターになった。
十代でクラブのママになった少女を取材したとき、現場に来たフリーカメラマンがKENさん。「この子たちの表情は今しか撮れない。一瞬の声を聞き逃したくなかった」と街に出た理由を語る。
二人は結婚後の二〇〇四年ごろから、週末ごとに歌舞伎町を訪れた。物陰や自販機の横に立ち、援助交際の相手を待つ子たち。ノートに書き留めた橘さんのメモが面白くて、KENさんは「形にしようよ」と提案。少女らの声が詰まったフリーペーパー「VOICES(ボイス)」を作り、今も発行を続ける。
「僕らが歌舞伎町で会ってきたのは、枠からはみ出している子たち。でも今は、はみ出せずにもがいている子が多い。そんな内面も写せたら」。心の居場所を見つけられずにさまよう少女らを、レンズ越しに見つめる。

NPO設立 夫婦で夜回り 少女見つめ
少女らと関わり続ける二人を支えた人もいる。歌舞伎町の東側に広がる新宿ゴールデン街のバー「WHO(フー)」の「ぢょにぃ」こと、店主の大槻陽一さん(52)は「自分もあぶれていた人間だから」と控えめに語る。
二人が知人のライターの紹介で初めてバーに来たのは、少女らの声を聞き歩いていた二〇〇六年ごろ。KENさんは「ぢょにぃさんには、かっこよさの中に孤独なにおいを感じた」と振り返る。
「街で出会った子たちがいられる空間があるといい」。熱っぽく語る二人に、大槻さんは「この曜日なら空いてるよ」。近くで経営する別のバー「Happy」で週一〜二回の日替わりマスターを任せた。
KENさんがカウンターに立つ間、橘さんが街で話を聞いた子を連れてくる。オレンジジュース一杯で朝までいる子や、お金がない子には、二人が自腹を切った。七カ月ほど働き、売り上げは一日数千円にしかならなかった。大槻さんは「誰にでもできることじゃないから」と気にしなかった。
京都市出身の大槻さん自身、二十歳まで高校に通った末に中退。不良が格好良かった時代だった。「ぐれるなんて、はしかみたいなもの。いつか治る」と笑う。長距離トラックの運転手などを経て、仕事を求めて新宿へ。客として来ていたバーを別の店主から引き継ぎ、十八年目になる。
ネット社会の現代。今は会員制交流サイト(SNS)に「死にたい」とつぶやく子が増え、実態が見えにくくなっている。時代の変化を受け止めつつ、橘さんにはこだわり続けることがある。
「私はどちらかというとアナログ。一緒に歩きながら話を聞いて伝える。それがリアルだから」
 (文・神田要一/写真・内山田正夫)