http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201808/CK2018082302000159.html
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1987年4月7日の「小林忍侍従日記」。「細く長く生きても仕方がない」と昭和天皇が吐露した心情が記されている
昭和天皇が八十五歳だった一九八七(昭和六十二)年四月に、戦争責任を巡る苦悩を漏らしたと元侍従の故小林忍氏の日記に記されていることが分かった。共同通信が二十二日までに日記を入手した。昭和天皇の発言として「仕事を楽にして細く長く生きても仕方がない。辛(つら)いことをみたりきいたりすることが多くなるばかり。兄弟など近親者の不幸にあい、戦争責任のことをいわれる」と記述している。
日中戦争や太平洋戦争を経験した昭和天皇が晩年まで戦争責任について気に掛けていた心情が改めて浮き彫りになった。小林氏は昭和天皇の側近として長く務め、日記は昭和後半の重要史料といえる。
八七年四月七日の欄に「昨夕のこと」と記されており、昭和天皇がこの前日、住まいの皇居・吹上御所で、当直だった小林氏に直接語った場面とみられる。当時、宮内庁は昭和天皇の負担軽減策を検討していた。この年の二月には弟の高松宮に先立たれた。
小林氏はその場で「戦争責任はごく一部の者がいうだけで国民の大多数はそうではない。戦後の復興から今日の発展をみれば、もう過去の歴史の一こまにすぎない。お気になさることはない」と励ました。
既に公表されている先輩侍従の故卜部(うらべ)亮吾氏の日記にも、同じ四月七日に「長生きするとろくなことはないとか 小林侍従がおとりなしした」とつづられており、小林氏の記述と符合する。
日記には昭和天皇がこの時期、具体的にいつ、誰から戦争責任を指摘されたのかについての記述はない。直近では、八六年三月の衆院予算委員会で共産党の衆院議員だった故正森成二氏が「無謀な戦争を始めて日本を転覆寸前まで行かしたのは誰か」と天皇の責任を追及、これを否定する中曽根康弘首相と激しい論争が交わされた。八八年十二月には長崎市長だった故本島等氏が「天皇の戦争責任はあると思う」と発言し、波紋を広げるなど晩年まで度々論争の的になった。
昭和天皇は、八七年四月二十九日に皇居・宮殿で行われた天皇誕生日の宴会で嘔吐(おうと)し退席。この年の九月に手術をし、一時復調したが八八年九月に吐血して再び倒れ、八九年一月七日に亡くなった。
小林氏は人事院出身。昭和天皇の侍従になった七四年四月から、側近として務めた香淳皇后が亡くなる二〇〇〇年六月までの二十六年間、ほぼ毎日日記をつづった。共同通信が遺族から日記を預かり、昭和史に詳しい作家の半藤一利氏とノンフィクション作家の保阪正康氏と共に分析した。
<お断り> 「小林忍侍従日記」からの引用、記述部分の表記は、基本的に原文のままとしました。◆心奥触れる「昭和後半史」
<解説> 昭和天皇の侍従だった故小林忍氏の日記には、晩年まで戦争の影を引きずる天皇の苦悩が克明につづられている。アジアの国を侵略した大日本帝国を率い、太平洋戦争の開戦と敗戦に臨んだ天皇の脳裏に刻まれた記憶が、最期まで頭から離れなかったことが改めて確認できる。貴重な「昭和後半史」だ。
昭和天皇は「戦前も平和を念願しての外交だった」(一九七五年五月十三日)と吐露したり、「細く長く生きても仕方がない」「戦争責任のことをいわれる」(八七年四月七日)と弱音を漏らしたりしていた。戦時中、学徒動員された二十二歳年下で一侍従の小林氏に信頼を寄せ、胸中を直接、明かした。戦争責任を問う世評に神経をとがらせる内情がにじむ記述だ。
アジアの国にも配慮を見せている。八〇年五月二十七日の記述には、国賓として来日した中国の華国鋒(かこくほう)首相に「陛下は日中戦争は遺憾であった旨先方におっしゃりたいが、長官、式部官長は今更ということで反対の意向とか」とある。小林氏は昭和天皇の考えに賛意を示すが、幹部が、中国侵略を正当化する右翼の反発を懸念し、封印してしまう。
戦前の青年将校によるクーデター未遂で閣僚らが犠牲になった「二・二六事件」(三六年)があった二月二十六日は毎年、「慎みの日」としていた記述も多数ある。既に公になっているエピソードだ。「臣下」を失った悲しみは、癒えることはなかった。
敗戦から七十三年。戦争の記憶が遠くなる中、昭和天皇が晩年、どういう思いで「大戦」に向き合ったのか、心奥に触れる価値ある日記だ。 (共同・三井潔)