https://mainichi.jp/articles/20180512/ddm/012/040/169000c
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京都大は11日、日本人初のノーベル賞を受賞した物理学者の湯川秀樹(1907〜81年)が、太平洋・ビキニ環礁付近での米国の水爆実験について書いた54年の日記を公開した。ビキニ事件を機に平和運動へ身を投じた過程がうかがえる資料だ。湯川と交流があり、日記の判読に携わった小沼通二・慶応大名誉教授(87)は「ビキニ事件から湯川は“行動の人”になった。核兵器が依然残る現代、私たちにどう考え、行動すべきか示唆する」と話す。
54年3月1日に行われたビキニ水爆実験は広島型原爆の約1000倍の規模。マグロ漁船「第五福竜丸」などが被ばくし、乗組員の久保山愛吉さんが死亡した。湯川は翌55年、「ラッセル・アインシュタイン宣言」に署名するなど核廃絶運動に傾倒していった。
日記は淡々とし、心情は直接書かれていない。しかし、ビキニ事件後に全国を講演し、1000人規模の市民が集まったことなどを記述。湯川が社会へ働きかける様子が分かる。湯川がその「原点」とするのが、54年3月30日付毎日新聞朝刊1面の寄稿「原子力と人類の転機」だ。日記でも掲載に触れている。
寄稿は約2300字。この中で湯川は「二十世紀の人類は自分の手でとんでもない野獣をつくり出した」と書き起こし、原子力を「野獣」「猛獣」と形容。「もはや飼主の手でも完全に制御できない狂暴性を発揮しはじめた」と危機感を示し、脅威に対する世界の連帯を訴えた。そして「私は科学者であるがゆえに、原子力対人類という問題をより真剣に考えるべき責任を感ずる」と決意を述べた。
小沼名誉教授は大学院時代、湯川、ノーベル賞を受賞した朝永振一郎と知り合った。核軍縮などを議論する「パグウォッシュ会議」などでともに活動し、湯川らは「行動する科学者」のモデルだった。
想定を超える原子力の危険性は、2011年の福島第1原発事故でも示された。小沼名誉教授は「日記の公開を今後の日本、世界を考えるきっかけにしてほしい」と期待する。日記は京都大基礎物理学研究所・湯川記念館史料室が公開。記述内容は同史料室のホームページで見られる。【菅沼舞、阿部周一】