(余録)「過去を支配できるかどうかは… - 毎日新聞(2018年5月11日)

https://mainichi.jp/articles/20180511/ddm/001/070/130000c
http://archive.today/2018.05.11-003321/https://mainichi.jp/articles/20180511/ddm/001/070/130000c

「過去を支配できるかどうかは、なによりも記憶の訓練にかかっている」。これは政府が過去を改ざんして人民を支配する未来社会を描くG・オーウェルの小説「1984年」の世界の記憶管理の説明である。
「記憶を現在の正しさに一致させるのは単なる機械的作業だ。しかしその出来事が望まれる形で起こったことを記憶するのもまた必要だ。記憶に手を加えたり修正する必要があれば、その修正の作業を行ったのも忘れねばならない」
幸いそんな全体主義体制の世界制覇をみずに1984年は過ぎ去った。だが記憶を現在の都合に一致させたり、修正したりする訓練は、21世紀日本の政府機関でもますますさかんに行われているらしい。そう思わざるをえない昨今だ。
「記憶の限りではない」。加計問題をめぐる首相官邸での愛媛県今治市関係者との面会をこう否定した柳瀬唯夫(やなせ・ただお)元首相秘書官が、国会の参考人招致で3度にわたる加計学園側との面会を認めた。ただし首相の関与は全面否定である。
昨年の国会で面会を否定したのは、質問された自治体の同席の記憶がないからだという。まるで子どもの言い逃れだ。「首相案件」発言はじめ首相の関与を示す愛媛県の文書の記述も否定したが、世の常識はどちらに信を置くだろう。
こと役人の記憶操作では練達の手ぎわを見せる安倍政権だが、国民の記憶まで管理できぬのが「1984年」とは違うところだ。人を小ばかにしたような記憶のつじつまあわせはほどほどにした方がいい。