(余録)「日本の法の無力さ」「日本では法が暴威を振るっている」… - 毎日新聞(2018年5月3日)

https://mainichi.jp/articles/20180503/ddm/001/070/095000c
http://archive.today/2018.05.04-001203/https://mainichi.jp/articles/20180503/ddm/001/070/095000c

「日本の法の無力さ」「日本では法が暴威を振るっている」−−まるで逆の指摘だが、一つの著書からの引用である。270年前の話だからあまり気にせずともよいが、モンテスキューの「法の精神」である。
彼はケンペルの「日本誌」などを元に、日本では専制政治により残虐な刑を用いる法が暴威を振るっていると考えたようだ。だが厳しすぎる法は人心の安定をもたらすのには無力という。当時の西欧の知識人の日本イメージが分かる。
この本の名を高めたのはそんな日本観ではなく、「すべて権力を持つ者は乱用しがちである。その限界まで権力を用いる」という普遍的洞察である。「権力を乱用できぬようにするには権力が権力を抑制するよう仕組まねばならない」
近代憲法の大原則となった立法・行政・司法の権力分立を唱えた「法の精神」だった。軍の暴走をもたらした明治憲法の失敗から生まれた現行憲法だが、今年の記念日は行政府の権力乱用の疑惑と不正の渦(うず)の中で迎えることとなった。
次々に露見した決裁文書改ざんや虚偽答弁、記録の隠蔽(いんぺい)などなど、いずれも行政をチェックすべき立法府をあざむく所業である。いやその間に立法府の解散・総選挙も行われたから、国民もごまかして民主政治をゆがめたともいえる。
憲法の改正に意欲を示す安倍晋三(あべ・しんぞう)首相だが、近代憲法思想の父祖たちが権力乱用の抑止に心を砕いたことははなから眼中になさそうだ。現代の日本で「暴威を振るう」のは何で、「無力」なのは何だろうか。