金子兜太氏死去 平和の俳句たたえつつ - 東京新聞(2018年2月22日)

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俳人金子兜太さんは平和の尊さを訴え続けた人だ。貫いた反戦には自らの戦争体験がある。戦後七十年の二〇一五年から本紙「平和の俳句」の選者であったのも、危うい世相への抵抗であろう。

<水脈(みお)の果て炎天の墓碑を置きて去る>

一九四四年に海軍主計中尉として西太平洋のトラック島(現在のチューク諸島)に派遣され、終戦を迎えた。捕虜になり、四六年に復員する。島を去るときに詠んだのが冒頭の句である。
旧制水戸高校時代から本格的に俳句を始め、東大時代に加藤楸邨(しゅうそん)に師事した。四三年に日本銀行に入行するも、直後に海軍へと。「炎天の墓碑」とは、何とも虚(むな)しい光景であることか。
金子さんのそれまでの人生が軍国主義の時代の中であることは間違いない。たとえ詩歌の世界であっても、安易に国家や軍を批判することはできなかった。
日本国憲法ができ、戦後社会はがらりと変わった。その最大の動力となったのは「表現の自由」である。文学はもとより、社会科学や自然科学の世界も自由の力で、戦後日本は躍進を遂げ、百花繚乱(ひゃっかりょうらん)のにぎわいをみせたのだ。
金子さんもまた、戦後の俳句改革運動の中心になった。「社会性俳句」「造形俳句」を提案、前衛俳句運動をリードし、理論的支柱となった。社会性や抽象性に富んだ無季の句を提唱したのだ。
見逃せないのが、平和運動に尽力したことだ。四七年に日銀に復職し、被爆地の長崎で勤務したこともある。

<彎曲(わんきょく)し火傷し爆心地のマラソン

日銀時代に詠んだ句である。長崎県被爆者手帳友の会の井原東洋一会長は「体を張って権力に対抗する人という印象を持っていた」と共同通信に答えている。
確かに戦後日本のありようが変わりつつある。特定秘密保護法集団的自衛権閣議決定、安全保障法制、憲法改正への動き…。
三年間で十三万句以上が集まった「平和の俳句」は、あたかも“軍事”へと向かう権力への庶民の対抗だったと思う。その意味でも選者の金子さんはまさしく「権力に対抗する人」だった。最後に寄せた自身の句は

<東西南北若々しき平和あれよかし 白寿兜太>

戦争を知らず平和を鼻で笑う政治家が跋扈(ばっこ)する世の中だ。「若々しき平和」を詠む俳人の死は高齢といえどあまりに惜しい。