(耕論)明治維新150年 三谷博さん、色川大吉さん - 朝日新聞(2017年12月20日)

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来年は明治元年から数えて150年。政府は施策を数々用意し、「明治の精神に学び、更に飛躍する国へ」とうたう。NHK大河ドラマの主役は西郷隆盛だ。だがしかし。私たちは維新の何を知っているだろう。歴史家2人に維新の実像を問い、現代人にとっての意味を聞く。
■武力よりも公議公論を重視 三谷博さん(跡見学園女子大学教授)
明治維新の大きな特徴は、武士という支配身分が消滅したことと、外国の革命に比べ犠牲者が非常に少なかったことです。しかし、この二つには、これまであまり目が向けられませんでした。
維新は革命ではないという思い込みが強かったからだと思います。革命とは下の身分が上に挑戦し、特に君主制を打倒して、多くの犠牲が出るものとされていました。君主が復権し、大名や公家が華族として残った明治維新は革命ではない、だから比較の対象にならないとされてきました。
支配身分の武士と被差別身分がともに廃止され、社会の大幅な再編成が短期間に行われた点で、明治維新は革命といえます。また、維新での死者は約3万人で、フランス革命と比べると2ケタ少ない。暴力をあまり伴わずに権威体制を壊した点で注目すべきです。

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明治維新には、はっきりとした原因が見当たりません。黒船来航は原因の一つですが、米国や英国は開国という小さな変化を求めただけで、日本を全面的に変えようとしたわけではなかった。個々の変化は微小なのに、結果として巨大な変化が起きたのが維新です。
歴史に「必然」という言葉を使うべきではないと思います。歴史の事象には無数の因果関係が含まれていますが、複雑系研究が示すように、それが未来を固定するわけではない。飛び離れた因果関係が偶然に絡み合って、大きな変化が生じることもあります。
維新でいえば、安政5(1858)年政変がそれです。外国との条約問題と将軍の後継問題が絡み合い、井伊直弼(いいなおすけ)が大老になって、一橋慶喜ひとつばしよしのぶ)を14代将軍に推す「一橋派」を一掃した。それが徳川体制の大崩壊の引き金となり、同時に「公議」「公論」や王政復古というアイデアも生まれました。
公議とは政治参加の主張です。それを最初に構想したのは越前藩の橋本左内(はしもとさない)でした。安政4年に、大大名の中で実力がある人々を政府に集め、同時に身分にかかわらず優秀な人間を登用すべきだと書いています。左内は安政6年に刑死しますが、公議公論と王政復古は10年かけて浸透していき、幕末最後の年には天皇の下に公議による政体をつくることがコンセンサスになった。最初はゆっくり進行したけれど、合意ができてからは一気に進み、反動も小さかった。
フランス革命は逆で、最初の年に国民議会がつくられ、人権宣言が出されます。3年後には王政を廃止しますが、そのあと迷走します。第三共和制で安定するまでに80年かかってしまった。
大大名のうち、越前藩や薩摩藩は暴力でなく、政治交渉で幕府を説得し、政権参加を実現しようとした。一方、水戸藩長州藩は言論と暴力の両方を使おうとした。
1868年の王政復古クーデターを主導したのは薩摩と土佐藩で、軍事衝突を避けるため、会津藩と長州の兵力引き離しに努めました。それでも鳥羽・伏見の戦いが起きましたが、ごく小規模で終わった。関ケ原以西の大名は天皇を担いだ新政府に従ったので、東北と箱館以外では内戦にならなかった。
維新のプロセスは一直線には進まず、危ない分岐点が多くありましたが、常に戦争を避けようとする選択が行われた。東北、箱館西南戦争では回避に失敗したとはいえ、政治家が暴力の行使より公議公論を重視したからこそ、結果的には犠牲者が少なくてすんだ。

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社会のひずみを直そうとするとき、言論だけでなく、暴力もしばしば使われます。幕末の水戸はそれで自滅する悲惨な経験をしました。しかし、維新を主導した人々は公議公論によって乗り越えた。
どうやって言論と暴力を分離するかは、人類の未来にとって非常に重要です。150年を前に、明治維新をただ持ち上げるのではなく、考える材料にすべきと思います。(聞き手 編集委員・尾沢智史)

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みたにひろし 1950年生まれ。専門は日本近世・近代史。東京大学名誉教授。著書に「明治維新を考える」「愛国・革命・民主」、近刊予定に「維新史再考」。



■民衆のエネルギーが原動力 色川大吉さん(東京経済大学名誉教授)
1968年の「明治100年」を、当時の佐藤栄作首相は政府主催の式典で祝いました。「近代国家発展の源になった明治の国民エネルギーを再認識し」「日本の第二の飛躍に役立たせたい」と、政府は意義をうたいました。
だが、そのころ国内外の情勢は、大学紛争やベトナム反戦、パリ5月革命など、近代化・合理化を至上価値とする現代の資本主義や管理社会への反発が若者の間に噴出し、大荒れでした。
長州奇兵(きへい)隊を創った高杉晋作のような維新の志士たちも、同様に幕藩体制に抵抗し、新しい日本の近代化の道を開こうと悪戦苦闘し斃(たお)れた若者です。その志士たちの成果を、近代の負の側面に無反省な首相らが横取りする。「むかし晋作、いま栄作」と並称して。

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それは許せないと私たちは、自由民権運動時代に西多摩の青年らがつくった五日市憲法草案をあの年に見つけ、対抗的にぶつけた。
草案は、国民や議会の権利を重視し、個人の権利保護の仕組みを詳しく定めた実に優れたものです。美智子皇后も草案の人権規定を称賛し、話題になりました。
この草案こそ、草の根の民衆が生み出したものです。そんな民衆の力がなかったら、明治維新のような一連の社会変革を起こしえなかったと私は考えています。維新期には、幕末の未曽有の農村危機に負けず、寺子屋などで知識を積み、生活打開の姿勢を打ち出してきた民衆、とりわけ中農以上の層が大きな役割を果たしました。
これら民衆が自分たちの幸福を実現してくれる歴史の発展方向へと動く。その中で幕末の打ち壊しや世直し一揆の運動も起きる。そうした民衆のエネルギーと、倒幕の志士たちが結びつき、明治の新政府を作ることができました。
しかし、新政府ができてもその後の歴史は民衆の望んだ方向に進まなかった。富国や強兵は強調されたが、政治の民主化や個人の解放といった近代の重要な課題は取り残された。そこで明治10年代になって豪農層を中心に、自由民権運動が強力に展開されたのです。
明治の為政者たちは、西欧列強の植民地政策に対峙(たいじ)するために強力な中央集権国家を作り出すことに全力を注いでいた。当然、民権勢力と激しく対立し、加波山秩父のような民衆によるすさまじい武装蜂起事件を引き起こした。
とはいえ伊藤博文大久保利通らは、歴史の渦の中で鍛えられている。幕藩権力を倒す過程で同志らと死線を乗りこえてきた。変革や民衆のエネルギーがどういうものか、身にしみていました。
だから権力を握っても、ある程度自分にブレーキがかけられた。西欧まで行って勉強し、議会を開いて皆の意見を聞こうと、その根本的な法として憲法も必要だと考えた。民のエネルギーをくみ取る仕組みを、それなりにつくったんです。
だが、その後の日本は結局、民衆の幸福を実現する方向ではなく、「富国強兵」という軍国主義の道を進んで1945年の敗戦に至りました。

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敗戦後、日本は軍国主義を完全に否定する平和憲法を持ち、70年以上も、戦争で一人も死なない平和な時代を保ち続けてきた。それと、市民生活がどれだけ内面的にも豊かになったか、社会福祉が充実したものになったかを誇るべきではないかと思います。
それでも先の総選挙では、改憲を唱えて戦後の平和の誓いを怪しくしている安倍晋三首相が大勝しました。その彼らが「明治150年」を祝う官製の行事をやるのなら、私たちは断固反対したい。安倍首相も大叔父の佐藤栄作にならって「むかし晋作、いま晋三」と言いたいところかもしれませんが、仮にもそんなことを言えば、歴史を歪曲(わいきょく)するようなもので、許されません。高杉晋作は革命に命を懸けたのですから。

 (聞き手・大野正美)

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いろかわだいきち 1925年生まれ。学徒出陣し、戦後は新劇運動、水俣病調査などにかかわる。専門は日本近代史、思想史。著書に「明治精神史」「自由民権」など。