https://mainichi.jp/articles/20170815/ddm/001/070/146000c
http://archive.is/2017.08.15-002609/https://mainichi.jp/articles/20170815/ddm/001/070/146000c
「畑中の檸檬(レモン)の一樹輝かに」。俳人の金子兜太(かねこ・とうた)さんの句だが、戦争末期、海軍の根拠地トラック島での作である。この地には珍しいレモンの木を見つけた金子さんは誰にも告げず、その輝きを自分だけの秘密にした。
当時、すでに米軍はサイパンへ侵攻、トラック島は戦線の背後に取り残されて補給は絶えていた。金子さんが指揮する200人の部隊は近くの秋島に移駐して自活を強いられ、栽培したイモは夜盗虫と呼んだ毛虫に食われて全滅する。
「栄養失調者は眠ったまま死ぬ。朝、必ずといっていいほど2、3人が起きなかった」。部隊長の頭を占めたのは、畑の生産力と人数をにらみ、あと何人死ねば食っていけるかという推計だった。今も悔いる「破廉恥(はれんち)な計算」である。
「椰子(やし)の丘朝焼しるき日日なりき」という句がわいたのは敗戦の報を聞いた朝だった。「水脈(みお)の果(はて)炎天の墓碑を置きて去る」。トラックには多くの餓死者を含む日本人戦没者8000の墓標が残った(「悩むことはない」文芸春秋)
ある歴史学者の推計によると、先の戦争での日本の軍人・軍属の戦没者230万人のうち餓死・戦病死が6割にのぼる。「死は鴻毛(こうもう)よりも軽し」は軍人(ぐんじん)勅(ちょく)諭(ゆ)の一節だが、それを兵士らに用いて恥じない戦争指導の無能と非道であった。
内外の戦没者に平和を誓う終戦の日だが、今年は東アジアに飛び交う好戦的な言葉が心を騒がせる中で迎える。人の生命を道具としか思わぬ軍事指導者と今も向き合わねばならない戦後72年の夏である。