http://mainichi.jp/articles/20161103/ddm/005/070/125000c
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国家のあり方が揺らいでいる。
このところ顕著なのは、自由や人権、民主主義といった価値を先駆的に追求してきた国々の揺らぎだ。
1年前に大規模テロが起きたフランス。難民の受け入れできしむドイツ。欧州連合から離れる英国。そして5日後に大統領選を迎える米国。
そこにあるのは、グローバリズムのもたらす苛烈な現実を前に、理想を支えきれずにあえぐ国の姿だ。
ひるがえって日本はどうだろう。所得格差の拡大やポピュリズムの浸透は各国の動向と無縁ではない。
きょう日本国憲法は公布から70年を迎えた。地球規模で潮流が大きく変化する中での節目である。内外の新たな政治状況
カネやモノが自由に移動するグローバル社会は、一面で国境の壁を低くする。しかし、同時にグローバル化はナショナリズムを刺激し、国家意識を強めもする。
その帰結が、各国で目立ち始めた自国第一主義の考え方であろう。フランスの著名な歴史人口学者エマニュエル・トッド氏は「グローバル化への疲れ」と表現する。
こうした風潮は、国際主義の力を弱め、日本の憲法論議にも影響してくる可能性をはらんでいる。
さらに今年は、7月の参院選を経て、憲法の改正に前向きな勢力が初めて衆参両院で3分の2以上に達した年だ。内外ともに新たな政治状況が憲法を取り巻いている。
憲法とは国家の根本原則を定めるものだ。それぞれの国の理念や統治ルールの骨格が書き込まれ、すべての法律は憲法に従属する。
したがって憲法が表現しているのはその国のかたちだ。同じ国でも時代の影響を受けて変わる。
日本国憲法は敗戦前後の激動期をくぐり抜けて生まれた。ポツダム宣言の受諾が事実上の出発点だ。
連合国軍総司令部(GHQ)は占領の開始直後に憲法改正を求めている。しかし、日本側作成の改正試案が明治憲法の修正にとどまっていたため、GHQ民政局のスタッフが直接原案作りに乗り出した。1946年2月のことだ。
日本側は戸惑いながらも翌3月にGHQ案を基に憲法改正草案要綱を閣議決定する。4月の衆院総選挙をはさんで、明治憲法の改正案として帝国議会に提出されたのは6月。1条や9条などに修正が加えられて10月に議会を通過した。
憲法公布日の46年11月3日、天皇は「国民と共にこの憲法を正しく運用し、自由と平和とを愛する文化国家を建設するように努めたい」との勅語を出している。
こうした憲法の制定過程を踏まえて自民党内には「押しつけ憲法」論が根強く存在する。安倍晋三首相もその考えの持ち主だ。
さらに首相を支持する右派の民間団体「日本会議」の中には、占領期に作られたから無効だとして「憲法破棄」や「明治憲法の復元」といった極論を唱える人たちもいる。
復古的な主張は以前からあった。しかし、安倍政権下でそれが強まっているのは、グローバル化に伴う反作用と考えることができる。
直視すべきなのは、この憲法が70年間改正されずに戦後日本を支えてきた事実の重みだろう。曲折を経ながらも、現行憲法の存続期間はすでに明治憲法を超えている。「敵視」では前に進めない
国会では今月から衆参両院の憲法審査会が議論を再開する。安全保障法制をめぐる混乱で休眠状態になった昨年6月以来だ。
改憲を宿願とする安倍首相は再三、審査会への期待を表明している。しかし、屈折した感情のまま憲法を「敵視」するようでは、議論を前に進めることはできない。
他方で改憲阻止を自己目的化する硬直的な「護憲」論もまた生産的ではないと私たちは考える。
相互依存の関係が進む国際社会にあって、かたくなに日本の憲法だけを絶対視するのは、形を変えた自国第一主義ではないだろうか。尊重しつつも相対化してみることだ。
憲法は国民が国家という共同体で幸福に暮らしていくためにある。権力が国民を管理する手段でもなければ、単なる権利章典でもない。
大切なのは、現行憲法の果たしてきた歴史的な役割を正当に評価したうえで、過不足がないかを冷静に論じ合う態度だろう。
70年のうちに時代は変わった。国民の意識も多様化している。「押しつけ」論と「護憲」論を延々とぶつけ合っていても、憲法に生命力を注ぎ込むのは困難だ。
投票価値の平等をめぐり、その場しのぎの制度改正が繰り返される参院の役割はどうあるべきか。政府と沖縄県の深刻な対立を踏まえ、地方自治をどう再定義していくか。これらは憲法の問題として議論に値するテーマだと考える。
衆院憲法審査会長に就任した自民党の森英介氏は本紙のインタビューに「『憲法論議に与野党なし』の精神を堅持する」と語っている。その考えに異論はない。
まずは各党が憲法とは何か、その土台を共有することだ。左右の極論はその障害になる。節目にあたってこのことを強く訴えたい。