(余録)「黒江町の暗渠埋め立て」といえば… - 毎日新聞(2016年10月1日)

http://mainichi.jp/articles/20161001/ddm/001/070/152000c
http://archive.is/2016.10.01-015201/http://mainichi.jp/articles/20161001/ddm/001/070/152000c

「黒江町の暗渠(あんきょ)埋め立て」といえば黒沢(くろさわ)明(あきら)監督のファンならピンとくるかもしれない。映画「生きる」で志村(しむら)喬(たかし)演じる市役所の市民課長の渡辺(わたなべ)が実現に奔走(ほんそう)する住民の陳情である。がんで余命わずかな彼は生きた証しとしてこの案件に打ち込む。
暗渠は土木課、住民が望む公園作りは公園課……多くの課でたらい回しにされていた陳情だった。渡辺が必死に各課に通い詰める姿が同僚に回想されるのはその通夜の席だが、死を前に彼が公園のブランコで一人「命短し恋せよ乙女」と口ずさむ場面は映画史に輝く。
さてこちらの暗渠埋め立てならぬ盛り土がなされなかったのはどんな事情によるのか。東京の豊洲新市場の主要建物の地下空間をめぐる調査報告では、その決断の時期も責任者も分からないままであった。分かったのは責任の所在すら示せない底の抜けっぷりである。
報告によれば技術部門では早くから地下利用が当然視されていたようだ。盛り土をしないのは何段階かの協議を経てなし崩し的に既成事実となったというが、はてご理解いただけるか。盛り土をしたという説明は実態を調べない者が前例を踏襲していたからだという。
「官僚制の逆機能」とは米社会学マートンが指摘した事なかれ主義や秘密主義、前例主義などの役人の病理だが、むろん縦割りのセクショナリズムもその一つである。土壌汚染が心配な土地に巨費を投じた市場建設において露呈された「逆機能」が何とも情けない。
各部局を必死に走り回って壁を破った渡辺のような人物がいれば話は違ったろう。だがいないのならば、それに代わる仕掛けを早急に整えることだ。