安保法成立1年 違憲性は拭い去れない - 東京新聞(2016年9月20日)

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安全保障関連法の成立から一年。「違憲立法」の疑いは消えず、既成事実化だけが進む。戦後日本の平和主義とは何か。その原点に立ち返るべきである。
与野党議員が入り乱れる混乱の中、安倍政権が委員会採決を強行し、昨年九月十九日に「成立」したと強弁する安保関連法。今年三月に施行され、参院選後の八月には自衛隊が、同法に基づく新たな任務に関する訓練を始めた。
政権は既成事実を積み重ねようとしているのだろうが、その土台が揺らいでいれば、いつかは崩れてしまう。その土台とは当然、日本国憲法である。

◆他衛認めぬ政府解釈
七月の参院選では、安保関連法の廃止と立憲主義の回復を訴えた民進、共産両党など野党側を、自民、公明両党の与党側が圧倒したが、そのことをもって、安保関連法の合憲性が認められたと考えるのは早計だろう。
同法には、「数の力」を理由として見過ごすわけにはいかない違憲性があるからだ。
安保関連法には、武力で他国を守ったり、他国同士の戦争に参加する「集団的自衛権の行使」に該当する部分が盛り込まれている。
安倍内閣が二〇一四年七月一日の閣議決定に基づいて自ら認めたものだが、歴代内閣が長年にわたって憲法違反との立場を堅持してきた「集団的自衛権の行使」を、なぜ一内閣の判断で合憲とすることができるのか。
憲法の法的安定性を損ない、戦後日本が貫いてきた安保政策の根幹をゆがめる、との批判は免れまい。成立から一年がたっても、多くの憲法学者ら専門家が、安保関連法を「憲法違反」と指摘し続けるのは当然である。
現行憲法がなぜ集団的自衛権の行使を認めているとは言えないのか、あらためて検証してみたい。

◆血肉と化す専守防衛
戦後制定された日本国憲法は九条で、戦争や武力の行使、武力による威嚇について、国際紛争を解決する手段としては永久に放棄することを定めている。
これは、日本国民だけで三百十万人の犠牲を出し、交戦国にとどまらず、近隣諸国にも多大な犠牲を強いた先の大戦に対する痛切な反省に基づく、国際的な宣言と言っていいだろう。
その後、日米安全保障条約で米軍の日本駐留を認め、実力組織である自衛隊を持つには至ったが、自衛権の行使は、日本防衛のための必要最小限の範囲にとどめる「専守防衛」を貫いてきた。
自国と密接な関係にある外国に対する武力攻撃を、自国が直接攻撃されていないにもかかわらず、実力で阻止する集団的自衛権については、主権国家として有してはいるが、その行使は専守防衛の範囲を超え、許されない、というのが歴代内閣の立場である。
日本に対する武力攻撃は実力で排除しても、日本が攻撃されていなければ、海外で武力を行使することはない。日本国民の血肉と化した専守防衛の平和主義は、戦後日本の「国のかたち」でもある。
しかし、安倍内閣は日本が直接攻撃されていなくても「わが国の存立が脅かされ、国民の生命、自由および幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある場合」には集団的自衛権の行使が可能だと、憲法を読み替えてしまった。
その根拠とするのが、内閣法制局が一九七二年十月十四日に参院決算委員会に提出した資料「集団的自衛権憲法との関係」だ。
安倍内閣は、自衛権行使の要件として挙げている「外国の武力攻撃」の対象から「わが国」が抜けていることに着目。攻撃対象が他国であっても、自衛権を行使できる場合があると解釈し、「法理としてはまさに(七二年)当時から含まれている」(横畠裕介内閣法制局長官)と強弁している。
しかし、それはあまりにも乱暴で、粗雑な議論である。当時、この見解作成に関わった人は、集団的自衛権を想定したものではないことを証言している。
国会での長年にわたる議論を経て確立した政府の憲法解釈には重みがあり、一内閣による恣意(しい)的な解釈が認められないのは当然だ。それを許せば、国民が憲法を通じて権力を律する立憲主義は根底から覆る。安倍内閣の手法は、歴史の検証には到底、耐えられない。

憲法の危機直視せよ
日本の安保政策を、専守防衛という本来の在り方に戻すには、集団的自衛権の行使を認めた閣議決定を撤回し、安保関連法を全面的に見直すしかあるまい。
安倍政権は、自民党が悲願としてきた憲法改正に向けて、衆参両院に置かれた憲法審査会での議論を加速させたい意向のようだが、政府の恣意的な憲法解釈を正すことが先決だ。与野党ともに「憲法の危機」を直視すべきである。