出撃者選んだ元兵士を映画化 特攻送り出し、苦悩の証言:茨城 - 東京新聞(2016年8月16日)

http://www.tokyo-np.co.jp/article/ibaraki/list/201608/CK2016081602000167.html
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太平洋戦争末期、特攻機「桜花」の最初の志願者とみられ、出撃者を選ぶ立場になった元海軍大尉、故・林富士夫さんへのインタビューによるドキュメンタリー映画が、今月下旬から公開される。昨年六月に九十三歳で亡くなる九年前に撮影され、現在の笠間市内にあった筑波海軍航空隊で特攻に志願した様子や、部下を送り出した苦悩などを語っている。 (宮本隆康)
「桜花」は、機体に爆弾を積んだ全長約六メートル、幅約五メートルの小型機。大型攻撃機につるし、敵艦に近づいて空中で切り離した後、操縦かんで操作して落ちながら体当たりを試みる。近づく前に母機ごと撃墜されることが多かったとされる。
林さんが生前に書き残した文書によると、戦争末期の一九四四年六月、筑波海軍航空隊で「桜花」の開発の是非を問う会議が開かれた。複数の志願者がいれば実施する、と上官は説明。教官を務める隊員らが意向を聞かれ、三日後に林さんら数人が志願した。
林さんは四五年三月から約三カ月間、鹿児島県の鹿屋基地で二十三歳の分隊長に。「桜花」の操縦を指導し、出撃者を選ぶよう命じられた。真っ先に自分の名前を書いたが、却下された。ひいきと思われないよう、親友や近しい部下たちを出撃させた。
戦後は、元部下らの遺族を全国行脚し、筑波海軍航空隊の跡地に記念碑建立を実現させた。林さんの遺族によると「部下を送り出した責任を感じ、ずっと罪の意識があって慰霊活動をしていた」という。
映画は、二〇〇六年に沢田正道監督が撮った約三十時間のインタビューを、一時間十六分の映画に編集した。タイトルは「人間爆弾『桜花』 特攻を命じた兵士の遺言」。映画の中で、林さんは「自分が志願しなければ、特攻は始まらなかった」などと後悔の念をにじませ、会議を振り返っている。
特攻隊として出撃させる親友に「おまえを殺すぞ」と伝え、「光栄です」と言われたことも告白。「育てておきながら殺すという矛盾に耐えかね、送り出した後は草むらにしゃがみ込んで泣いた」などと打ち明けている。
映画公開を前に沢田監督は「戦争とは何だったのか、来るべき戦争を止められるのか、と考えるきっかけにしてほしい」と話している。
「人間爆弾『桜花』 特攻を命じた兵士の遺言」は、二十七日から、東京・渋谷のシアター・イメージフォーラムで公開。以後、各地で順次公開予定。
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笠間市に残る筑波海軍航空隊の旧司令部庁舎を活用した記念館は今月から、林さんの遺品や「桜花」の資料など約八十点を公開している。