笑えぬ噺で戦争感じて 林家三平さん、来月「国策落語」再現 - 東京新聞(2016年2月27日)

http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201602/CK2016022702000131.html
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戦時中、戦意高揚のためにつくられた「国策落語」があった。大衆芸能の負の記憶にまみれ、戦後は演じられなくなったこの落語に、二代目林家三平さん(45)が挑む。あの時代の真実を知るため、東京大空襲から七十一年の三月、祖父の七代目林家正蔵さんが創作した「出征祝」を東京都内で演じる。 (松尾博史)
店の若旦那に召集令状が届き、番頭や店員たちと喜び合う。「待ちに待った召集令状だ」「もちろん生きて帰ろうとは思っていない」。そんなせりふが続き、落ちは店員の言葉。「出征祝いのお酒が二合二本買ってあるんでしょう。二本買った(日本勝った)」
出征祝を知ったのは昨年夏ごろ。家族の歴史をたどるテレビ番組に出演した際、スタッフが集めた資料の中に台本があった。
親戚たちから聞いていた祖父は、舶来の流行に敏感なハイカラボーイだった。「台本に目を通して、はっとした。祖父の言葉じゃない…。検閲を受けて直されて。それでも祖父は、生きていくためにやらざるを得なかったんですよね」
戦争のおそろしさを、周囲から聞かされてきた。父で「昭和の爆笑王」と呼ばれた初代林家三平さんは特攻隊要員だった。戦争末期は米軍の上陸に備え千葉県の海岸にいて、火薬を付けた竹やりで戦車を突いて自爆する役目だった。母でエッセイストの海老名香葉子さん(82)は東京大空襲で家族六人を亡くした。
自由にものが言えず「本心を言ったら捕まる」時代があったことを若者たちに知らせたい。戦争と落語というと、最近は遊郭や愛人などをテーマにして不謹慎だと禁止された「禁演落語」がブームだ。
しかし三平さんは「禁演落語は平和な時代の話。本当に戦争のことを直視するなら国策落語ですよ。でも誰もやらなかった。国策落語は笑えない。客が入らない」。
そんな「笑えない落語」をできるだけ台本のまま再現する。「戦争を肯定した切り口で会場に昭和十年代のにおいを再現し、戦争を体感してもらいます」
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口演は三月一日、東京都台東区生涯学習センターで午後一時と午後七時から。小型特攻機「桜花(おうか)」を題材にした三平さんの出演映画「サクラ花 桜花最期の特攻」も上映。前売り二千円(当日二千五百円)。問い合わせは映画センター全国連絡会議=電03(3818)6690(平日のみ)=へ。
◆戦意高揚する内容強要
禁演落語」は遊郭などを題材にした五十三種が上演自粛され、太平洋戦争開戦直前の一九四一年十月、東京・浅草の本法寺(ほんぽうじ)に立てられた「はなし塚」に台本などを納め、封印された。
代わって戦意高揚を図る落語が創作、口演された。演芸評論家の柏木新(しん)さん(67)によると、貯蓄や献金隣組で協力し合う大切さ、出産の奨励、スパイへの注意などを呼び掛ける内容が多い。戦後、研究者が「国策落語」と名付けた。
柏木さんは「国民が戦争に総動員される空気の中で、戦争協力を強要された。もともと落語家が好んで作った落語ではなかったので、戦後は誰もやらず、自然消滅した」と話す。
◆落語「出征祝」要約 
「紀元二千六百年とせがれの出征、めでたいのが重なった。どうだろ、店の者全部の名で国防献金をしては」
(大旦那は盛大な歓送会を提案。番頭と店員の相談が始まる)
「順に食べたいものを言ってごらん」
「テキが食べたい」
「テキはいけないね、ぜいたくはテキだと言うからね」
「じゃトンカツは」
「好いだろ。テキにカツだから」
「お酒も呑んでかまいませんか」
「いいとも、ちゃんと、二合瓶二本買ってある」
「縁起が好いや」
「どうして」
「若旦那の出征祝いのお酒が二合二本買ってあるんでしょう。二本買った(日本勝った)」

※一九四一年七月発行「名作落語三人選」(東洋堂)より抜粋。一部、原文の表記を修正した。

<はやしや・さんぺい> 1970年12月、東京都台東区出身。「昭和の爆笑王」と呼ばれた初代林家三平(1925〜80年)の次男。90年、林家いっ平の名で落語家の修業を始め、2002年に真打ち昇進。09年に林家三平を襲名。時代劇などテレビ出演も多い。兄は九代目林家正蔵さん。
<七代目林家正蔵> はやしや・しょうぞう(1894〜1949年)。東京生まれ。柳家三平、七代目柳家小三治の名を経て、七代目正蔵を襲名。新作やギャグを織り交ぜた落語を得意とした。初代林家三平のフレーズとして知られる「どうもすみません」は、もとは父親の七代目正蔵が使っていたという。