軍都の記憶(6)川崎市多摩区の旧登戸研究所 - 東京新聞(2015年8月26日)

http://www.tokyo-np.co.jp/article/kanagawa/20150826/CK2015082602000171.html
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「ミスター・バンの履歴は?」。一九四六年六月、東京都内のビルの一室で、連合国軍総司令部(GHQ)の取調官が伴繁雄さん(一九〇六〜九三年)に尋ねた。
伴さんは、二七年に陸軍科学研究所に入り、三九年から終戦まで、旧陸軍最大の秘密戦研究機関「登戸研究所」に勤務した。
現在の川崎市多摩区にあった登戸研を研究する明治大非常勤講師の渡辺賢二さん(72)=日本近現代史=は、こうした尋問について「米軍の細菌兵器開発に役立たせようという意図の表れ」とみる。
登戸研では毒物細菌兵器の開発などが進められた。中国・南京で旧関東軍防疫給水部(七三一部隊)と人体実験も行った。旧陸軍は敗戦時に証拠を隠滅し、関係者は以後、長らく口を閉ざした。
渡辺さんによると、米軍は四五年九月に登戸研を調べ始めたが、ソ連(当時)が七三一部隊の関連将校を拘束して細菌兵器の情報を得たらしい、と分かった四七年、登戸研の解明に本腰を入れた。
当時、登戸研関係者は米軍横須賀基地ソ連北朝鮮の身分証を偽造するなどしていた。伴さんも五二年から横須賀で米軍の活動に参加している。
伴さんは、九三年に登戸研の活動内容を記録した手記「陸軍登戸研究所の真実」を書き上げた。伴さんの妻は「原稿が完成し『晴々とした気分だ』と申していた。肩の荷を下ろし、責任を果たせたことでホッとしていたようだ」と、同書のあとがきで語っている。
伴さんは戦争が終わっても、登戸研の活動内容をしばらく口外できなかった。また、戦後、米軍の活動に従事したが、その中身も話せなかった。手記でも、米軍との関わりは最初の接触が書かれているだけだ。渡辺さんは「二重の苦しみだったろう」と推察する。
二〇一三年に特定秘密保護法が制定された。そして今、安倍晋三政権は米軍と一体化した軍事行動ができるよう法整備を進める。渡辺さんは「また、秘密裏に謀略機関や研究所がつくられる可能性がある」と警告する。
「次世代のため証言した伴さんなら、こう言うのではないでしょうか。また悪夢が来る。二度と繰り返してはいけないのに、と」(山本哲正)