新国立競技場問題―強行政治の行き詰まりだ - 朝日新聞(2015年7月18日)

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安倍首相の言葉が空々しい。

「国民の声に耳を傾けて」「世界から称賛される大会に」
2020年東京五輪パラリンピックの主会場となる新国立競技場の計画見直しに、首相がやっと重い腰を上げた。
わずか1週間前、国会で「時間的に間に合わない」と否定したのは、首相自身だった。
急な心変わりは、審議を重ねるほど異論が高まった安全保障関連法案を、衆院で強引に採決したタイミングと重なり合う。
せめて競技場の問題では、民意にこたえる指導者像を演じることで内閣支持率の低落傾向に歯止めをかけたい。そんな戦術と勘ぐられても仕方ない。
空前の財政難のなか、競技場に無謀な巨費を投じる愚策だった。丁寧な説明と合意づくり、完成後もにらんだ長期の収支計画など、公共事業に求められる水準にほど遠い代物だった。
「白紙に戻し、ゼロベースで見直す」(首相)との方針転換は至極当たり前の決定である。
政府と東京都、大会組織委員会など各関係組織は、五輪・パラリンピックを成功させる国際責任を果たすとともに、後世の国民スポーツの底上げに資する堅実な計画を練り直すべきなのは言うまでもない。
■あいまいな責任所在
問題の核心はむしろ、なぜ、この土壇場まで決断ができなかったのか、である。誰の目にも明らかな問題案件であり続けたにもかかわらず、なぜ止められずにここまできたのか。
そこには、日本の病んだ統治システムの姿が浮かび上がる。すなわち、責任の所在のあいまいさである。
下村文科相は情報が上がってくるのが遅れたと逃げ、事業主体の日本スポーツ振興センターは、計画変更の判断は文科省に責任があると押しつけあった。
3千億円でも4千億円でも立派なものをと主張してきた大会組織委の森喜朗会長はきのう、「僕は元々、あのスタジアムは嫌だった」「誰も責任はない」と言い放った。
当初予算からほぼ倍増した建設費と、完成後の維持費をどう工面するのか。政府の説明にはいくつも疑問が突きつけられ、あやふやに終始した。
「誰が責任をとるのか」。舛添要一都知事が漏らした怒りの声はもっともだったが、その知事も含めて今に至るも、誰が最終責任者なのかが見えない。
本紙が報じた国会議員の発言は驚くほかなかった。「責任の行き着く先は、安倍晋三森喜朗という2人の首相になるから誰も鈴を付ける人がいない」
権力を握った者がにらみをきかせれば、無理が通る――。露呈したのは、首相や有力政治家が絶対君主のようにふるまい、たとえ同じ政党のメンバーでも異論を言えない。そんな日本の政界の有り様である。
■民意軽視が常態化
世論に押された末の今回の決定は、安倍流政治の行き詰まりも物語っている。
競技場問題が迷走した過程で一貫していたのは、異論を遠ざける姿勢だった。政策決定の責任者たちが、国民の声に耳をふさぐことが常態化している問題は深刻だ。
「デザインが景観にそぐわない」「巨大すぎる」「工費が膨れあがりかねない」。国際コンペで採用されたデザインについては当初から、建築界や市民団体から異論が噴出していた。
昨年5月に基本設計案を了承した時も含め、見直す機会は何度もあった。デザインが決まったのは「民主党政権のときだ」と下村文科相は責任転嫁めいた釈明もした。
だが、ことごとく引き返すチャンスを逃してきたのは安倍政権だったことを猛省すべきだ。
■安保と原発にも通底
民意を顧みず、説明責任を避け、根拠薄弱なまま将来にわたる国策の決定を強行する――。
それは競技場問題に限った話ではない。国民が重大な関心を寄せる安保関連法案や、原発関連行政にも通底する特徴だ。
首相や閣僚らが意味不明な国会答弁を重ね、国民の疑問は置き去りにされている安保法案。国民の安全に関する最終責任がどこにあるのか見えないまま、再稼働に突き進もうとしている原発の問題。
そのいずれでも国民の多数がはっきりと強い懸念を示している。国民の命と安全に直結する問題だというのに、首相は国会での数の力で押し通し、異論に敬意を払おうとしない。
政治権力者が民意に耳をふさぐなら、学者や市民の異議申し立てが熱を帯びるのは当然だ。これ以上、政治と国民の距離を広げてはならない。
急に競技場計画を見直す理由として、首相は「主役は国民一人ひとり、アスリートの皆さんです」と語った。ならば安保も原発も、あらゆる政治課題でも、主役は国民一人ひとりであることを悟るべきだ。
今回の競技場問題から、くむべき教訓は広く、重い。