「9条俳句」金子兜太さんインタビュー 掲載拒否は「言葉狩り」-東京新聞(2014年9月8日)

http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2014090802000111.html
http://megalodon.jp/2014-0908-0925-46/www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2014090802000111.html

◆「社会を詠む」は特別じゃない

さいたま市教育委員会は「世論を二分するようなテーマの作品は月報にそぐわない」と、掲載拒否の理由を説明しています。

「市教委は『九条』の言葉に反応したんだろうけど、俺からみたら滑稽だ。作者がデモに好意を持っていたとしても、ごく普通の市民が率直に感じたことを俳句にしただけでしょう。戦後、特に高度経済成長のころから、花鳥風月だけでなく、社会を詠(うた)おうという傾向が広がってきた。『梅雨空−』だって、そういう風潮の中で詠まれた。市教委はそんな俳句の現状に鈍い。過剰に反応するのではなく、余裕を持って受け入れるべきだった」

−市教委は、公民館の月報に載せる文芸作品の基準も作ろうとしています。

「(基準ができれば)今回の『梅雨空−』のように言葉狩りになる。非常に危険。だったら穏やかなものだけ作っておこうと、みんな萎縮しちゃう。どんな立場の作品が出てきても、載せたらいい」

−金子さんは一九四〇〜四三年の特別高等警察による「新興俳句弾圧事件」も目の当たりにしましたね。

「戦争を風刺していた俳人が次々に治安維持法違反で捕まった。俺が所属していた俳句雑誌『土上(どじょう)』の主宰者だった島田青峰(せいほう)先生も捕まった。先生は穏やかな俳句を書いていたのに、捕まるなんておかしいと思った」

終戦直前に海軍主計中尉として日本軍の拠点だったトラック島(現ミクロネシア連邦チューク諸島)に派遣されました。

「学生のころは、戦争は(日本が)豊かになるためには仕方がない、という気持ちもあった。戦争を甘く見ていた。だけどトラック島では毎日のように誰かが餓死し、米軍の空爆があると五十人から六十人がすっとんだ。戦争なんて無残な死を積み重ねるだけ。こうなる前に、なんで自分は戦争に反対できなかったのか、甘い考えを悔いた。それで戦後、戦争のない世の中にしたいと、社会を題材に俳句を詠み続けてきた」

東京電力福島第一原発事故後、金子さんが詠んだ句に「『相馬恋しや』入道雲に被曝(ひばく)の翳(かげ)」などがあります。

「今や、社会のことを俳句に詠むのは特別なことじゃない。そういうふうに自由に俳句が発表できる環境はとても大切。今回の掲載拒否が前例になれば、一般の人たちのごく普通の作品が、次々に(社会から)つまみ出されてしまうことになりかねない。市教委が今後も『梅雨空−』の句を掲載しないのであれば、掲載拒否が前例にされないよう求めていくことが大切だ」