東京への空襲 犠牲者の40%近く未成年-NHKニュース(2014年2月26日)

http://nhk.jp/N4C76W8T
http://megalodon.jp/2014-0226-0738-08/nhk.jp/N4C76W8T

犠牲者のうち、0歳から9歳までが最も多い20%を占め、次いで10歳から19歳が18%と、20歳未満の子どもたちが38%を占めました。
これは、国が当時、疎開を推奨していたものの家庭や経済的な事情で行けなかったり、中学生以上が勤労動員に駆り出されたりして、実際には多くの子どもたちが東京に残り、犠牲になったとみられています。

参考)

受験のため、菊川国民学校(現菊川小学校)の6年生が学童疎開から東京に戻り、空襲で犠牲になったという話

(http://park.geocities.jp/ktyyn30/kikukawa-shougakkou.htm より引用)

柳原町の子供達は、菊川国民学校(現菊川小学校)に通っていました。しかし昭和19年(1944)、戦局の悪化により、東京都は国民学校第3学年以上の学童疎開を本格化します。これを受けて、菊川国民学校でも、その年の9月に、3年生以上の子供達を千葉県大網町、土気町、東金町に分散させて集団疎開させました。しかし、翌年の3月初め、東金にいた100人以上の6年生が、受験のため東京に帰り、3月10日の空襲に遭遇し、約8割が死亡するという悲しい結果となりました。

菊川公園は、昭和20年3月10日の東京大空襲の時、下町はB29による爆撃を受け、墨田区の9割以上の地域に被害が及んだ。特に菊川小学校(当時は菊川国民学校)へは何百もの人々が避難し、そのうち助かったのはわずかで、講堂や校舎に重なり合った死体の山は目をおおうばかりだったという。

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柳原町の人々そして菊川国民学校の子供達の運命は、戦争に翻弄された「銃後」の庶民の悲劇を象徴的に物語るものといえるでしょう。
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昭和12年(1937年)の時点では、572世帯、2,509人の居住が確認されていて、今回の調査でわかった死者数は約215名です。これは、町人口の約8.5%になります。

ただし、疎開による人口の減少や身元不明の多数の犠牲者を考慮すると、死亡率は更に高まるはずです。ほかにも性別の確認ができた136人の死者のうち82人が女性、年齢の確認ができた85人中、42人が20歳未満の子供という結果が出ました。

参考)

東京大空襲ー叔母一家を探して歩く
http://home.cilas.net/yunami/9jo/senjika.html#imai1

母の戦争体験ー学童疎開の子どもたちを預かって
学童疎開校の現在のこどもたちに語る〜
http://home.cilas.net/yunami/9jo/senjika.html#isikawa

戦乱に翻弄された子供達(PDF 7ページから)
http://p.tl/x_zj