<つなぐ 戦後74年>「核廃絶へ世界の人たちと連帯を」 ヒロシマで救護や遺体処理 92歳伊達さん 悲惨な体験語る:神奈川 - 東京新聞(2019年8月15日)

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<つなぐ 戦後74年>若者が思う戦争 埼玉大、体験者から学ぶ授業:埼玉 - 東京新聞(2019年8月15日)

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<つなぐ 戦後74年>脳裏焼き付く あの光景 日立の戦争体験 同級生6人が語る:茨城 - 東京新聞(2019年8月15日)

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<つなぐ 戦後74年>戦時の苦労、食卓で学ぶ すいとん作り平和感じて - 東京新聞(2019年8月15日)

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<つなぐ 戦後74年>語ることが生きる力に 戦争体験 介護施設で聞き取り - 東京新聞(2019年8月14日)

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<つなぐ 戦後74年>認知症の人が心を開く 記憶たどり 堂々と語り部に - 東京新聞(2019年8月14日)

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<つなぐ 戦後74年>認知症の人が心を開く 記憶たどり 堂々と語り部に - 東京新聞(2019年8月14日)

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<つなぐ 戦後74年>戦災樹木の記憶、後世に 研究者ら3D・超音波調査開始 - 東京新聞(2019年8月14日)

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終戦の日に考える 憲法の下 令和は流れる - 東京新聞(2019年8月15日)

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令和元年の終戦の日です。先人たちが汲(く)み上げた「平和憲法」の清流を源に、時代の新しい流れがまた巡ります。私たちの不戦の意志を推力にして。
昭和二十年八月十五日。東京都心の社交クラブで玉音放送を聞いた帰り道。その紳士は、電車内で男性の乗客が敗戦の無惨(むざん)をあげつらう怒声にじっと聞き入ります。
「一体(俺たちは)何のために戦ってきたんだ」
映画の一シーンです。
実在の紳士は幣原喜重郎(しではらきじゅうろう)。当時七十二歳。この二カ月後、首相となって日本国憲法の成り立ちに深くかかわっていきます。

◆不戦の源流を遡る
連合国軍の占領下、天皇制の存続と一体で「戦争放棄」を日本側から発意したとされる。憲法のいわゆる「押しつけ論」に有力な反証をかざす、あの人です。
社説にも何度か登場しました。「またか」とおっしゃる向きもありましょう。けれども今回は改憲論争の皮相から離れ、より深くにある幣原の平和観に迫りたい。
平成から令和へと時代が移ろう時にこそ、流れを遡(さかのぼ)り、確かめておきたいことがあるからです。昭和の先人たちから受け継ぐ不戦の誓い、すなわち平和憲法の源流はどうであったか、と。
その映画づくりが大詰めと聞いて、幣原生誕の地、大阪府門真市を訪ねました。三年後に迎える生誕百五十年の記念事業で、人類平和にかけた生涯を綴(つづ)る手作り映画です。題名は「しではら」。
「地元でもあまり知られていなかった元首相の、高潔な理想を後世に伝えるため、まずは名前の読み方から知ってもらおうと。多くの人に平和を考えるきっかけを届けたい」。元教諭や税理士など地元有志の実行委員会を率いる酒井則行さんと戸田伸夫さんが、事業の意義を語ってくれました。既に七月、撮影終了。DVDにして今秋にも公開予定とか。

◆野に叫ぶ民の思い
「私たちはこの映画で、昨今の改憲論争にくみしたり『九条を守れ』と訴えたいわけでは決してありません」。二人が口をそろえて強調したことです。
幣原の「戦争放棄」は思い付きや駆け引きからではない。もっと人生の深みから湧き出た、純粋な平和観なのだと。その歴史的な価値を絶やすことなく後世につないでいかねば、ということです。
例えば第一次大戦後の世界が、戦争はもうこりごりと、世界平和を願う機運にあったころ。幣原は協調派の外交官としてその世界にいました。時代の集約ともいえるパリ不戦条約の精神も当然、熟知していたはずです。まさしく「戦争放棄」の精神でした。
一方、国内では戦争拡大に反対し終戦まで長く下野していたが、久々に「感激の場面」に出くわします。あの映画にもあった終戦当日、電車の中の出来事です。
その後の展開が、自著の回顧録「外交五十年」に出てきます。 

<総理の職に就いたとき、すぐに私の頭に浮かんだのは、あの電車の中の光景であった。これは何とかしてあの野に叫ぶ国民の意思を実現すべく努めなくちゃいかんと、堅く決心したのであった>

<(憲法で)戦争を放棄し、軍備を全廃して、どこまでも民主主義に徹しなければならんということは(私の)信念からであった>

恐らく電車の中で幣原は、外交官当時の記憶を呼び覚まされたのでしょう。欧米の軍縮会議などを駆け巡り、世界に広がる「不戦」機運を肌で感じながらいた当時の記憶です。幣原は乗客の怒声に確信したはずです。不戦の意志がついに日本人にも宿ったと。ここが「戦争放棄」の起点でした。
そしてもう一歩。幣原を踏み込ませたのは、広島、長崎の原爆です。元首相の口述を秘書官が書き留めた「平野文書」に記す、幣原のマッカーサー元帥に向けた進言から一部抜粋です。

<原爆はやがて他国にも波及するだろう。次の戦争で世界は亡(ほろ)びるかも知れない>

<悲劇を救う唯一の手段は(世界的な)軍縮だが、それを可能にする突破口は自発的戦争放棄国の出現以外ない>

<日本は今その役割を果たし得る位置にある>

◆平和の理想つなげ
幣原の「戦争放棄」は、後世の人類を救うための「世界的任務」でもありました。源にあったのは高潔なる平和の理想です。
七十四年が過ぎました。いま令和の時代を受け継ぐ私たちが、いまもこの源から享受する不断の恵みがあります。滔々(とうとう)たる平和憲法の清流です。幣原の深い人類愛にも根差した不戦の意志を、令和から次へとつなぐ流れです。
流れる先を幾多の先人が、世界が、後世の人類が見つめます。
止めてはいけない流れです。

 

【親子で学ぶぅ】<終戦の日編>今も残る戦争の影響 「二度としない」約束守ろう - 東京新聞(2019年8月15日)

https://megalodon.jp/2019-0815-1102-45/https://www.tokyo-np.co.jp:443/article/education/manabuu/CK2019081502000158.html

 

(筆洗) 船の中の歌声 - 東京新聞(2019年8月15日)

https://www.tokyo-np.co.jp/article/column/hissen/CK2019081502000137.html
https://megalodon.jp/2019-0815-1101-05/https://www.tokyo-np.co.jp:443/article/column/hissen/CK2019081502000137.html

終戦直後、韓国・釜山からの引き揚げ船での出来事を作家の久世光彦(くぜてるひこ)さんが書いている。本当にあった話だという。食べ物をめぐって男たちがけんかを始めた。「争っている男たち自身、情けない、やりきれない思いだったが、それぞれ後へは引けなかった」
刃物まで持ち出し、いまにも血を見るというとき、おばあさんが唱歌の「朧(おぼろ)月夜」をつぶやくように歌いだしたそうだ。<菜の花畠(ばたけ)に入日薄れ>-。「周りの何人かがそれに合わせ、やがて歌声は船内の隅々にまで広がっていった。争っていた男たちが最初に泣きだした。みんな泣いていた」
終戦の日を迎えた。七十四年前の「朧月夜」の涙を想像してみる。複雑な涙だろう。戦争は終わったとはいえ、不安といらだちは消えぬ。日本はどうなっているのか。その望郷の歌がかつての平穏な日々と人間らしさを思い出させ、涙となったか。切ない歌声だっただろう。
その場にいた人が当時二十歳として現在九十歳を超えている。戦争の過去は昭和、平成、そして令和へと遠くなる。
そして戦争の痛みもまた遠くなる。それを忘れ、戦争をおそれず、物言いが勇ましくなっていく風潮を警戒する。もし戦争になれば…。せめてその想像力だけは手放してはならない。
「二番が終わるとまた一番に戻り、朧月夜はエンドレスにつづいた」。船の中の歌声をもう一度想像してみる。

 

終戦の日と戦後処理 世代をまたいで辛抱強く - 毎日新聞(2019年8月15日)

https://mainichi.jp/articles/20190815/ddm/005/070/063000c
http://archive.today/2019.08.15-013827/https://mainichi.jp/articles/20190815/ddm/005/070/063000c

終戦の日である。戦禍にたおれた人びとを追悼するとともに、日本が歩んだ過去への内省や、不戦の決意が交差する日だ。
今年はここに韓国との深刻な不和が加わって、日本の座標軸をより複雑なものにしている。
戦後74年。昭和から平成、令和へと時代を経ても、戦争の後始末がいかに困難であるかを物語る。一度手を染めると、修復するのに何世代もかかるのが戦争の宿命だ。
ここで日本の戦後処理がどうなされたか改めて整理しておきたい。
日本を占領した当初、米国などが考えた対日賠償政策は、被害国の感情を反映して日本の経済力を最低レベルに抑える懲罰的な内容だった。

歴史リテラシーの不足
ところが、朝鮮戦争の発生と占領経費の増大が、米国の政策転換をもたらす。冷戦によって戦略的な価値が増した日本を経済的に自立させることが米国の利益に変わった。
こうして1951年9月調印のサンフランシスコ平和条約は、日本に十分な支払い能力がないことを認めて、役務提供という日本に有利な賠償方式が採用された。
日本は77年までかけてアジア諸国への賠償総額15億ドルを完済した。少なくない金額だが、相手国が購入する日本製品の代金を政府が円で支払う形だったため、日本企業のアジア進出の後押しにもなった。
若い政治家には「日本は過酷な条件で十分に償った」と思い込んでいる人がいる。日本に寛大だった講和内容の理解不足だ。政治家は歴史へのリテラシーを高める必要がある。
韓国との国交正常化も、サンフランシスコ条約に沿ってなされた。条約が、かつて日本の統治下にあって戦後に分離された地域に対する特別な取り決めを求めていたからだ。
植民地支配の性質をめぐって交渉は難航し、65年の日韓基本条約調印までに14年を費やした。実質的には米国の影響を受けた3カ国条約ではあったが、大局的な見地から双方が妥協した歴史的意義は大きい。
昨年10月に出た韓国最高裁の判決は、その土台を揺さぶっている。元徴用工の問題は条約の枠内で「解決済み」というのが両国の見解だったのに、「司法権の独立」を盾に日韓関係の一方的変更をもくろむ文在寅(ムンジェイン)政権の対応は極めて遺憾だ。
ただし、日本が文政権の外交的不作為をなじるだけでよいだろうか。韓国は中国と並んで日本の近代史における「特別な国」である。
戦時中の日本には、70万人と推定される朝鮮半島出身の徴用工のほかに、強制連行された約3万9000人の中国人労働者がいた。
過酷な労働を強いた日本企業に対して、中国人被害者が起こした裁判のうち、2000年に花岡事件の鹿島、09年に西松建設、16年に三菱マテリアルとの和解がそれぞれ成立している。韓国とは対照的だ。
中国は日中共同声明で戦争賠償の請求を放棄し、韓国は請求権協定で3億ドルの無償資金を受けているという事情の違いはある。中国は連合国の一員で、韓国と日本は交戦状態になかったとの区別も可能だろう。

先人の努力を忘れずに
それでも日韓両国がこのまま正面対決を選んで、「歴史」のトゲが一層深く突き刺さって抜き差しならなくなることを私たちは恐れる。
花岡和解では政治家ルートが機能した。相談を受けた土井たか子衆院議長が後藤田正晴元副総理に話をつなぎ、後藤田氏が鹿島の石川六郎元会長を説得したという。
また朝鮮半島や台湾出身の元軍人・軍属に弔慰金を支給する特別立法(00年5月)は、野中広務官房長官の熱意から生み出された。
衆参国会議員709人のうち戦前・戦中生まれは現在わずか28人、4%足らずになっている。政界から戦争の記憶は薄れる一方だが、条約から漏れた課題に目を凝らしてきた先人の努力を忘れるべきではない。
「加害者と被害者の間の和解には、世代を越えた双方の勇気と努力を必要とする。加害者にとっては、過去と正面から向き合う勇気と反省を忘れない努力、被害者にとっては過去の歴史と現在を区別する勇気であり、相手を許して受け入れる努力である」。栗山尚一(たかかず)元外務次官は「外交フォーラム」誌でこう訴えていた。
戦争のもたらす被害はあまりに大きく、国家間のある時点での処理には限界がある。少しずつでも辛抱強くトゲを抜こうとする努力が、平和国家としての土台を強くする。

 

8・15 戦場の記憶 時を超え、痛みを語り継ぐ - 朝日新聞(2019年8月15日)

https://www.asahi.com/articles/DA3S14139655.html
https://megalodon.jp/2019-0815-1059-34/https://www.asahi.com:443/articles/DA3S14139655.html

74年前のきょう、日本の降伏で戦争が終わった。
あの昭和の時代からどれほど時を経ても、惨禍を記憶にとどめ、不戦と平和の誓いを語り継ぐ大切さはかわらない。
満州事変以降に拡大したアジア太平洋戦争により、日本人の死者は300万人を超えた。無謀な戦争の犠牲となった人々に追悼の念を捧げる日である。
そして同時に、忘れてならないことがある。侵略と植民地支配により、日本以外の国々に及ぼした加害の事実である。
大東亜共栄圏を掲げた日本は各地の要所を占領した。現地の人を巻き込み、犠牲を強いた。はるか遠くの島や山あいで、それぞれに刻まれた戦争の記憶と戦後がある。その傷痕に目を向けることは、歴史の教訓を学ぶうえで欠かせない。
激戦の地で証言や資料を残そうという取り組みがある。
パプアニューギニアの首都中心部から東に50キロ。この奥の密林で、日本軍とオーストラリア軍の激しい攻防があった。「ココダ道の戦い」と呼ばれる。
現場はいま、観光客に人気の山岳縦走コースだ。近くのソゲリ村のビリー・イバイさん(50)のおじは当時、豪州軍の遺体や傷病兵、銃弾を運ばされた。
「戦争を実体験した世代は消えていく。体験は共有できなくとも、気持ちを寄り添わせることはできる」

■語られなかった苦悩

豪州が委任統治していたニューブリテン島(現パプアニューギニア)のラバウルを攻めた日本軍は1942年、2千メートルを超す山々を貫くココダ道を進み、豪州軍と衝突した。
犠牲者は豪州側が600人以上、日本側が数千人以上とされる。だが、突然、戦場となった現地の人々の恐怖や苦悩はあまり語られてこなかった。
75年の節目である2年前、イバイさんら70人超が協力して証言集ができた。昨年末には首都の国立博物館に、証言をビデオで見られる場所もできた。
この事業を主導した同館学芸員のグレゴリー・バブリスさん(32)は言う。「私たちニューギニアは単なる戦闘の背景。豪州の歴史書には名前もない『コックの少年』『洗濯女』として登場するだけだった。その声を代弁したいのです」
 同じような動きは、インド北東部のインパールでもある。
「レッドヒル」。地元の人がそう呼ぶ丘が郊外にある。日本兵らの血で染まったことが由来だ。そのふもとにこの6月、地元の観光協会が、日本財団の協力で平和資料館を開いた。
補給が不十分なまま無理な突撃を続けた44年のインパール作戦で死亡した日本兵は、3万人超にのぼる。一方で現地の人が強いられた犠牲をどれだけの日本人が知っているだろうか。
館内には鉄かぶとや水筒など日英両軍の遺品だけでなく、巻き込まれた237人の犠牲者名簿も展示されている。

■我がことと考える

インパールに住むチャンドラ・サキさん(85)は当時を鮮明に覚えている。
朝、約10機の日本軍の飛行機が、爆音とともに激しい空襲を始めた。父と一緒に地面に伏せた。何も持たず別の村に逃げ、1年半後に戻ったが家はなく、英軍の拠点となっていた。腹をすかし、村を転々とした。
「戦争は家を奪い、命を奪う。この体験を資料館が次世代に伝えて欲しい」と話す。
開館前、地元の設立委員の人たちは日本を訪れ、沖縄の南風原文化センターとひめゆり平和祈念資料館を見学した。のどかな町や村など広域が熾烈(しれつ)な戦場となり、故郷が破壊された沖縄。その史実はインパールに通じる、と感じたという。
ひめゆり資料館は今年、開館30周年を迎え、新たな課題に直面している。最近、来館者の感想に「ぴんとこない」との言葉があった。戦争が遠い昔の出来事に思われていると、館長の普天間朝佳さん(59)は言う。
99年度に100万人超だった入館者数は18年度は約53万人まで減った。修学旅行も減少傾向にある。その流れを変えたいと、来夏に「さらに、戦争から遠くなった世代に向けて」というテーマでリニューアルする。
ひめゆり学徒は沖縄戦陸軍病院に動員された地元の女学生計222人で、うち123人が戦争で亡くなった。
展示の刷新のかぎは「共感」。戦争前の学校生活での笑顔や表情豊かな写真を使い、身近に感じてもらう。中高生らに、学徒が同じ世代で楽しい学校生活があったことを訴えかける。

■戦後世代の責任

大切なのは、踏みつけられた人、弱い立場の人の痛みを知ることではないか。
自分の国の暗い歴史や他人の苦しみを知り、思いをはせるのは簡単ではない。だが、今の世代が先人らの心情を受け止め、戦争の愚かさを伝え、未来を切り開かねばならない。
過去を反省することは後ろ向きの行為ではない。未来に向けての責任である。

 

終戦74年 惨禍の記憶を継承したい - 琉球新報(2019年8月15日)

https://ryukyushimpo.jp/editorial/entry-971923.html
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終戦から74年を迎えた。戦争の悲劇を改めて心に刻み、不戦の誓いを新たにしたい。惨禍の記憶は決して風化させてはならない。
日中戦争から敗戦までの日本人の戦没者は310万人に上る。このうち約230万人は軍人・軍属等だ。
沖縄では、おびただしい数の住民を巻き込んだ地上戦が繰り広げられた。帝国陸海軍作戦計画大綱(1945年1月)は沖縄を皇土防衛の「前縁」と位置付け、敵が上陸した場合、極力敵の出血消耗を図ると明記している。本土を守るための捨て石にされたのである。
沖縄戦は凄惨を極め、日米合わせて20万人余が命を落とした。一般住民と現地召集などを含めた県人の犠牲者は12万2千人余に達する。住民の死者が際立って多い。
日本軍は、住民の食料を奪ったり、避難していた壕から追い出したりした。スパイの嫌疑をかけられるなどして虐殺された人も多い。
沖縄に配備された第32軍の「球軍会報」は、軍人軍属を問わず標準語以外の使用を禁じ、「沖縄語」で談話をする者は間諜(かんちょう)(スパイ)とみなし処分すると記している。
「軍隊は住民を守らない」という事実は、未曽有の犠牲から得た教訓だ。
このような惨劇を二度と繰り返してはならない。そのためには、日本がこの先もずっと、平和国家の道を歩み続けることが不可欠だ。
ところが、近年の状況を見ると、無謀な戦争によって国が滅びかけたことさえ忘れてしまったようにも映る。
安倍晋三政権は2014年、憲法解釈を変更し集団的自衛権の行使を容認すると閣議決定した。翌15年には自衛隊の海外活動を地球規模に広げる安全保障関連法を成立させている。戦争や紛争に国民を巻き込む危険を増大させる政策だ。
集団的自衛権の行使は憲法上許されない、というのが一貫した政府の解釈だった。本来、一政権による閣議決定で覆せるほど軽いものではない。安保関連法自体、違憲の疑いが強い。
安倍首相が意欲を示すのが憲法改正である。自民党は改正の条文イメージとして「自衛隊の明記」「緊急事態対応」など4項目を提示している。自衛隊の明記は、平和憲法の根幹である9条を事実上、死文化させる恐れがある。
憲法の基本原理である「平和主義」は、多大な犠牲を出した大戦への反省から生まれたものだ。平和主義の精神を具体的に規定した9条を変える必然性は全くない。
戦争がもたらした不幸を忘れ去ることはできないし、忘れてはならない。同時に、災いをもたらした国の仕組みや手法についても理解を深め、同じ過ちを繰り返さないように、目を光らせる必要がある。
先の大戦から得られた反省と教訓をいま一度、思い起こしたい。

 

終戦の日に 情動の正体を見極める - 信濃毎日新聞(2019年8月15日)

https://www.shinmai.co.jp/news/nagano/20190815/KP190814ETI090008000.php
http://web.archive.org/web/20190815014706/https://www.shinmai.co.jp/news/nagano/20190815/KP190814ETI090008000.php

「二度と戦争を起こしてはならない」「あの時代も悪いことばかりではなかった」―。
戦争をテーマにした映画やドラマ、小説に寄せられる感想をネット上で目にする。
「国のため、愛する者のため」に散った兵士の姿、くじけずに生きる銃後の人々のけなげさ…。断片的な物語からくみ取る「美」に共感し、涙する。
戦争を知らない世代が表出する情動。問われるのは、心を揺さぶるものの正体を自身で見極めること、ではないだろうか。

安吾の見た大空襲>

1945年春。焼夷(しょうい)弾が降り注ぐ東京にいた作家の坂口安吾は、荒廃した街の光景を「堕落論」にこうつづっている。
<私は戦(おのの)きながら、然(しか)し、惚(ほ)れ惚れとその美しさに見とれていたのだ。私は考える必要がなかった。そこには美しいものがあるばかりで、人間がなかったからだ>
<戦争中の日本は嘘(うそ)のような理想郷で、ただ虚(むな)しい美しさが咲きあふれていた。それは人間の真実の美しさではない>
文芸評論家の山城むつみ氏は「戦争について」で、安吾の文意を次のように読み解いている。
安吾は、うっとりみとれながらも、その美しさ、その理想郷に空虚や虚偽を見出すことを忘れていない>。安吾は「人間」と「考える」を手放さなかった。だから<戦争の美の力をその魅惑の中心において突き放しえた>。

この批評の意味を、ずっと考え続けてきた。
東京圏で活動する市民団体「history for peace(ヒストリー・フォー・ピース)」代表の福島宏希さん(37)と、メンバーの桐山愛音さん(19)に話を聞いた。

<抜け落ちた事実は>

2年前に発足したばかりの団体で、福島さんを除く5人のメンバーは10代、20代だ。少数ながら戦争体験者から話を聞き、戦跡を巡る継承活動に力を入れる。空襲に遭った民間人への補償問題の勉強会も開いてきた。
侵略戦争を肯定するような主張に福島さんは違和感を抱き、自分で戦史をたどり、ウェブサイトで発信していた。続けるうちに、実際に体験者に会い視野を広げたいと思うようになったという。
「世の中に出回る情報は事実がそぎ落とされている。体験者から重い現実を聞くごとに、自分の中の戦争像がはっきりするようになった」と福島さんは話す。
時々見る戦争映画には「日本の被害を描いた作品が多い。映像にはない面、日本は他国に何をしたのか。社会全体に掘り下げる動きがない」とも。
いま世界を覆いつつある風潮にも通じる大切な指摘だ。
トランプ米大統領イスラム教徒や黒人、中南米の移民に向ける差別的言動を、市民の喝采が許している。格差をもたらす構造的な問題は脇に置き、威勢のいい為政者のかけ声に共鳴し、白人中心だった過ぎた時代に「理想のアメリカ」を見ようとする。
欧州も同じだ。経済不況、財政難、移民流入、テロの原因には目が向かない。排他的な民族主義をとなえる政党に、多くの有権者が引き寄せられている。
日本では、収まる兆しのない韓国との対立を少なからぬ国民が支持している。
日韓請求権協定で「徴用工問題は解決済みだろう。協議に応じなかったのも韓国ではないか」。政府の主張をなぞるような「嫌韓」感情が先に立つ。国と国との協定に置き去りにされた、かつて強制労働に従事した人々の痛みに想像力が働かない。

<考えて自らつかむ>

桐山さんは高校2年の時に広島の平和記念公園を訪ね、原爆ドームで若いガイドの話を聞いた。「過去、現在、未来…。当たり前のつながりを初めて実感した。強烈な感情が刻まれて、歴史を学ぼうと思った」と言う。
「history」に入ると、戦争孤児となった人を取材して記録をまとめた。今月開いた戦争体験者7人の話を聞く会では、運営の中心役を担っている。
刻まれた強烈な感情とは何かを尋ねると、桐山さんは「うまく言葉にできない」と答えた。体験者と話をする前と後で、戦争との距離感が変わったのを桐山さんは感じている。史実を調べ、考え続けることで「刻まれた感情」は輪郭を帯びてくるのだろう。
「団体の活動をこれからにどう生かせるのか、難しい問題で悩んでいる。12月にワークショップを開いて『考える体操』をしてみます」と福島さん。戦中に傷ついた人たちが戦後どうなったかも追跡するつもりでいる。
受け身では事の本質を捉えきれない。迷いながらも知ろうとする個々の行動を重ねることで、情動にとらわれない戦争の真相も語り継げるのかもしれない。
安吾が自問した「人間」と「考える」。その実践を、若い世代の取り組みに見る思いがした。