(筆洗) 船の中の歌声 - 東京新聞(2019年8月15日)

https://www.tokyo-np.co.jp/article/column/hissen/CK2019081502000137.html
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終戦直後、韓国・釜山からの引き揚げ船での出来事を作家の久世光彦(くぜてるひこ)さんが書いている。本当にあった話だという。食べ物をめぐって男たちがけんかを始めた。「争っている男たち自身、情けない、やりきれない思いだったが、それぞれ後へは引けなかった」
刃物まで持ち出し、いまにも血を見るというとき、おばあさんが唱歌の「朧(おぼろ)月夜」をつぶやくように歌いだしたそうだ。<菜の花畠(ばたけ)に入日薄れ>-。「周りの何人かがそれに合わせ、やがて歌声は船内の隅々にまで広がっていった。争っていた男たちが最初に泣きだした。みんな泣いていた」
終戦の日を迎えた。七十四年前の「朧月夜」の涙を想像してみる。複雑な涙だろう。戦争は終わったとはいえ、不安といらだちは消えぬ。日本はどうなっているのか。その望郷の歌がかつての平穏な日々と人間らしさを思い出させ、涙となったか。切ない歌声だっただろう。
その場にいた人が当時二十歳として現在九十歳を超えている。戦争の過去は昭和、平成、そして令和へと遠くなる。
そして戦争の痛みもまた遠くなる。それを忘れ、戦争をおそれず、物言いが勇ましくなっていく風潮を警戒する。もし戦争になれば…。せめてその想像力だけは手放してはならない。
「二番が終わるとまた一番に戻り、朧月夜はエンドレスにつづいた」。船の中の歌声をもう一度想像してみる。